第1話
砂漠の元盗賊、宝石を見つける
辺り一面、金色です。
それは、はてしなく広がる砂漠の色でした。灼熱の太陽に照らされた砂つぶが風にあおられ、舞い上がります。
砂漠の真ん中には、陽炎のようにゆらめくひとりの男の姿がありました。
「ふう、ふう……思っていた以上に、砂漠ってのは暑いところだな」
男は息を切らせながら、必死に足を前へと運んでおりました。額に流れる汗は、一瞬にして乾くほど。喉はとっくに、からからでした。
腰にさげた水袋の口を開け、ひっくり返してみました。しかし、一滴も水は出てきてはくれませんでした。
「まずいな、水も食料ももうなくなった。今日中に、砂漠の都にたどり着けるといいが……」
男が不安げにつぶやいたそのとき。
ついに、目の先に丸い宮殿の屋根が見えました。男は「ひゃっほう」と飛び上がり、急に元気になったその足で、都をめざして駆け出しました。
砂漠の都は、めずらしい物であふれていました。見たことのない果物や、ふしぎな香辛料の香り。家の形や人々の服装も、男が生まれたところのものとはまるでちがいます。男は喉の渇きも忘れて、夢中で都を見てまわりました。
「しまった! うかれている場合じゃなかったぜ」
男ははっとして、いそいで市場の路地裏へと向かいました。しばらくその辺を行ったり来たりしていましたが、やがて一軒の店の前で立ち止まりました。店の名前を見て、男はにんまりと笑みを浮かべました。
「やった。ついに、たどりついたぞ!」
興奮した声とは裏腹に、男の目の前にあるのは質素でとてもちいさな店でした。派手な看板も、鮮やかな布でできた日除けもありません。入り口だって、大人がひとり、やっと通れるぐらいにちいさいのです。
だれもが、そこに店があることすら気づかずに通りすぎてしまうような店でした。けれど男の目には、その店がまるで迷宮の最奥に眠る宝の山か、はたまた澄んだ水のあふれるオアシスのように見えました。
男がいそいそと中に入ると、人のよさそうな、ふっくらとした男が奥からやってきました。
「やあやあ、ようこそラムールの宝石店へ。わたしが、店主のラムールです。お客さん、さては遠いところからやってきましたな。手も足も、その凛々しいお顔まで砂だらけ。長い旅をしてきた証でしょう。さあ、まずはその砂をはらって、こちらに座ってゆっくりミントティーでも飲んでください」
「たしかに長い旅だったし、あやうく干からびるところだったよ。でも、そんなことは些細なことさ。それより、この店ですばらしい装飾品を売っているってうわさをきいたんだ。それは本当なのか?」
「本当ですとも! うちの宝石はどれもまちがいなく本物だし、ちゃんと鑑定書だってお付けします。そしてなにより、うちにはそこらの職人には負けない、腕のいいやつがいるんです。立派な宝石はもちろんのこと、どんなにちいさな宝石であろうとも、たとえ欠けてくすんだ宝石であろうとも。やつの手にかかれば、見ちがえるほどに美しい宝飾品に様変わり」
そういって、店主のラムールはいくつかの指輪や首飾りを広げてみせました。
男は、思わず感嘆の声をあげました。どれもこれも、ため息が出てしまうほどにきめ細かな銀細工がほどこされていました。肝心の宝石たちも、すべて丁寧に磨きこまれ澄んだ輝きを放っています。
「こりゃあ、すげえ。さすが、ジャウハラは宝石の都と呼ばれるだけあるぜ。はるばる、ここまできたかいがあったな」
男はさぞ嬉しそうにいいました。それからすこし遠慮がちに、ラムールにたずねました。
「おれは、貴族の生まれでもなんでもないんだ。そりゃあ、宝石を買いにきたぐらいだから、すこしぐらい持ち合わせはある。でもさ、大金をぽんと出せるわけじゃあないんだ……こんなおれは、客としてみてもらえないかな?」
ラムールはにっこりと笑って、人差し指をぴんと立てました。
「心配なさらずに。宝石は、大地が生み出した奇跡。それを手にするのに、金持ちも貧乏人も関係ありません。ただ、それよりも大切な条件がひとつあります」
「条件?」
「うちで買った宝飾品が、大切なだれかへの贈り物であること。これだけです」
男は目を瞬かせました。てっきり、お金のことをいわれるものだと思っていたので、男はすこし拍子ぬけました。
「それって、そんなにも大切なことなのか?」
「今から五年ほど前まで、世界には魔物がはびこっていました。だれかの想いがこめられたものは、それを持った人を魔物から守ってくれたといわれています。だれかへの贈り物は、特別な力を持つ。それはきっと、魔物があらわれなくなった今も同じです。そういうわけで、この店を開いたときに、そんな想いを持つ人にだけ宝石を売ろうと決めたのです」
「そうだったのか。そんなすばらしい理由があったなんてな……」
男は、ラムールのことばにいたく感動していました……すると、ラムールはにやりと笑いました。
「まあつまり、本当のことをいうと、身分の高さや名誉を証明するためだけに、宝石を着飾るような愚か者には、うちの商品を手にする価値はないということですな」
いたずらをたくらむ子どものように、楽しそうにラムールはいいました。
男は笑って、そしてほっと息をはきました。まさに男は、人に贈り物をするためにこの店までやってきたのです。
「でも、本当にだれかへの贈り物かどうかなんてわからないんじゃないか? おれが、うそをついているってこともあるかもしれないぜ」
「あなたのことは信じますよ。うちの店のうわさをきいて、わざわざ遠いところからきてくださった。砂漠を旅するのは、さぞや大変だったでしょう。それだけでじゅうぶん、気持ちは伝わりました」
「そりゃあよかった。……こんなにもきれいな装飾品なら、きっとあいつもよろこぶよ」
男は大切な人の顔を思い浮かべて、穏やかに微笑みました。
「さあ、お好きな宝石をお選びください。指輪でも、腕輪でも首飾りでも。近ごろは、足輪もお守りのかわりとして身につける方が増えました」
「そのことなんだけれどな……じつは、お願いがあるんだ」
男は、懐から大事そうにちいさな布袋を取り出しました。袋の口を開き、そこからぽとりと手のひらに石をひとつ出してみせました。
それはとてもちいさな、けれど目を見張るほどに美しい、紅く輝く宝石でした。
「おお、これはなんとすばらしい……」
「その腕のいい職人にさ、この宝石で指輪をつくってほしいんだ。この宝石を、真っ赤な薔薇の花に見立てた指輪を……いいや、それにはちいさすぎる石だってこともわかっているんだ。でも、あいつは薔薇が好きだから……どうにか、できないかな。無理をいっていることはわかってる。だがどうか、このとおり」
ラムールはすこしのあいだ、あごに手をあてて考えこみました。
「このようなことは、初めてです。ですがわたしたちは、お客さまの願いはできるかぎりかなえたいと思っております。少々おまちを。おおい、ちょっときてくれ」
ラムールが店の奥に向かって声をかけると、やせた青年がすっと顔を出しました。
すこし癖のある茶色い髪は、目元のあたりまでのびています。頬には、そばかすがうっすらと浮かんでいました。琥珀色の瞳が、じっと男を見つめています。
「こちらのお客さまが、この宝石で薔薇の指輪をつくってほしいんだと。できるか?」
青年は、目線を男から紅色の宝石へと移しました。にこりともしないその表情に、男はすこしとまどいました。
やがて青年は、無表情のままちいさくうなずきました。
(ずいぶんと、愛想が悪いなあ)
男が眉をひそめると、それを見透かしたかのようにラムールが苦笑いを浮かべました。
「すみません。かれはアランといって、かれがそのうわさの職人なんですけれども。ちょいとばかり、人と話すのが苦手なんです。しかし腕はたしかだから、多めに見てやってください」
男はいぶかしげな顔をしながらも、宝石をアランの手の上にのせました。
「……じゃあ、お願いするよ。砂漠には半月ばかりいる予定だから、それまでにたのみたいんだ」
男がそういうと、アランはすこし考えこむように目をつむりました。半月という期限に間に合うかどうか、迷っているようでした。
やがてゆっくりと目を開き、アランはまたうなずきました。相変わらず、返事はありません。やれやれ、こんな若者にまかせてだいじょうぶだろうかと、男はすこし不安になりました。なにしろ、その宝石は男の持ち物の中で最も高価で、大切なものでしたから。
男が店を出ようとしたとき、アランが「あの」とちいさく声をかけました。
「……これ、とてもいいルビーです。きっと、すてきな贈り物になります」
すこし頬を赤くしながら、アランはいいました。男はびっくりして、目をぱちくりとさせました。まさか、褒められるなんて思ってもいなかったのです。
ついさっきまで、アランのことをあまりよく思っていなかったというのに、そのことばをきいたとたん、そんな気持ちはきれいさっぱりなくなっていました。
「ありがとうな。それ、手に入れるの苦労したんだぜ。だからせいいっぱい、きれいな指輪にしてほしいんだ」
男が笑ってそういうと、アランは「はい」と、今度はしっかりと返事をしました。
「それじゃあ、半月後にまたいらしてください。ああそうだ。砂漠を観光するときは、じゅうぶんに気をつけて。死んだと思われていた兄王子が王宮にもどってきてからは、だいぶんよくはなりましたが。まだまだ、掏摸や盗人はたえませんから」
ラムールの忠告をしっかりと胸に刻み、男は上機嫌で店をあとにしました。
♪ ♫ ♪ ♫
さて。アランは作業部屋へと戻ると、男からあずかったちいさなルビーをじっと眺めました。
改めてちゃんと見てみると、ちいさくてもすばらしいルビーであることがよくわかりました。宝石好きの人間なら、大金を積んででも欲しがるかもしれません。
アランは早速、頭の中で薔薇の花を思い浮かべます。花びらを重ね、蔓をのばし、葉をつけてゆきます。のびた蔓は輪を描き、やがてアランの頭の中で、美しい薔薇の指輪が完成しました。忘れないうちに、その姿を羊皮紙に描き写してゆきます――。
今から五年前、アランは三人の仲間とともに旅をしていました。その旅を終えたあと、この砂漠の都へと帰ってきたのです。かつて砂漠で一緒に暮らしていた盗賊たちは、あたたかくアランをむかえてくれました。
それからしばらくのあいだ、アランは市場の端で靴磨きをしたり、王宮の炊事場で皿洗いなどをしていました。毎日、アランは必死に働きました。両親のいないアランが生きてゆくためには、とにかく働いてお金を手に入れる必要があったのです。
盗賊たちの生活にも、変化がありました。ある盗賊は有名な船乗りになったり、はたまたある盗賊には恋人ができたり、隠された宝を求めて新たな地へと旅立ったり……そうやって、それぞれの道を歩んでゆきました。そんなかれらの背中を、アランは見送りました。見送りながら、アランは考えていました。
(おれは、おとなになったらどうなるんだろう……)
自由を手に入れた今、なんだってすることができます。けれどいざ、なにをしようか考えてみると、アランは途方にくれてしまいました。
そんなある日、アランはあるお客の靴を磨いていました。それが、宝石商のラムールでした。丁寧に靴を磨くアランに感心して、ラムールは自分の元で働かないかと、アランに声をかけたのです。
「ちょうど、人手がほしいと思っていたんだ。おまえさんのように、真面目で器用で、仕事熱心である人手がね」
ラムールはどこかのんびりとした性格で、顔つきも穏やかなものでした。ほかの商人たちのような、ぎらぎらとした瞳もしていません。アランは旅のあいだに出会った、宝石を売るおじいさんを思い出しました(じつはその人の正体は、貧しい人を助ける泥棒だったのですが)。
そうして、アランはラムールの元で働くことに決めました。
口数のすくないアランではありましたが、ラムールはすぐにアランを気に入りました。店の奥に、アランのために作業部屋をつくってくれました。アランがそこで暮らしてゆけるように、ベッドや戸棚も置いてくれたのです。静かで素朴なその部屋を、アランはとても居心地がよいと思いました。窓からは、いつも星や月が見えました。
それから今日まで、アランはこの店で働きながら暮らしています。植物の根が水を吸い上げるように、アランはラムールが教えたことを次々に覚えてゆきました。宝石を磨くだけだった仕事は次第に増えてゆき、ついには装飾品をつくる仕事まで任されるようになりました。
なにかをつくるという仕事は、アランにとって生きがいのように感じられました。新しい装飾品を生み出すたびに、心がわくわくとはずむのです。もっとつくってみたいと、指先が勝手に動き出すのです。
だれとも話さず、静かな部屋でひとりで作業に没頭できるのもいいところでした。いつのまにか、アランのつくる首飾りや指輪は、ほかの宝石商たちのあいだでもひそかにうわさになっていました。
「いやいや、びっくりしたよ。うちの商品が、まさかほかの国でも評判になっているなんて。アランももう、宝石職人として一人前だなあ。出会ったときは、まだ十二ほどの小僧だったというのに。今ではすっかり、見上げるほどにまででかくなっちまって……」
羊皮紙に指輪の絵を描きこんでいると、ラムールがアランの隣にやってきてしみじみといいました。アランは手を止め、ラムールの方へと振り向きました。
「あとはもうすこし、笑顔がふえるといいな。それと、もっと飯も食いなよ。やせすぎだ」
「すみません」
アランが謝ると、ラムールは「いいさ」と笑いました。そして、ちらりと羊皮紙を見ました。
「もう、指輪のデザインが浮かんだのか。仕事熱心なのもいいけれど、あまり根をつめすぎないようにな」
「はい」
「今日は、もう店じまいにしよう。いつものように、あとは頼んだぞ」
店を閉めるのは、アランの仕事でした(とはいっても、扉にかけた看板を〈閉店〉の方へとひっくり返すだけでしたが)。
ラムールはアランに手を振り、自分の家へと帰ってゆきました。ラムールには家族がいるのです。一度も会ったことはありませんでしたが、ときどきラムールが奥さんや娘の話をするのを、アランはきいたことがありました。
あずかったルビーをしまい、店の扉に鍵をかけると、アランは市場へと向かいました。ラムールのいうとおりに、きちんと夕食をつくって食べようと思ったのです。
夕闇に染まる市場はにぎわっていました。暑い砂漠に住む人々は、太陽が沈み涼しくなるころに活動を始めるのです。どんな料理をつくろうかと、アランは市場で売られている食べ物をひとつずつ眺めました。
レンズ豆を煮たスープ、数種類のスパイスとともに炊きこんだご飯に、羊肉と唐辛子の串焼き……思いつく料理はいくつもありました。
アランは、料理が得意でした。盗賊たちと一緒に暮らしていたころや、旅をしていたころは、いつもみんなにおいしい料理をつくっていたのです。けれど近ごろは、だれかに料理をふるまうこともとんとなくなってしまいました。
(なんでもいいか。作ったって、食べるのはおれだけなんだし)
そんなことを考えていたときでした。
ふと、目の前をひとりの娘が歩いているのが見えました。その後ろ姿に、アランの心臓はどきりと跳ねました。
髪の色こそ違うものの、長い髪を高い位置で結ったその姿は、まだアランが幼かったころに知り合った女の子によく似ていたのでした。
その娘の姿に、一瞬だけその女の子の姿が重なりました。心臓は、まだうるさいほどに鳴り続けています。
(……見まちがいだ。本人のはずがない)
そのとき、娘の持ったかばんに、見知らぬ男が後ろから手を入れたのが見えました。掏摸です。アランの目が、すっとするどくなりました。
娘は気づいていません。男はさっさと娘からはなれ、人の波にまぎれようとしました。
その波を駆け抜け、アランはすばやく男の手をつかみました。
「おい。あんた、財布を盗んだだろ」
低い声でそういい、男をつかむ手に力をこめました。
「な……いいがかりはよせよ。これは、おれさまの財布だぜ」
男はたじろぎながらも、アランの手をふりほどこうとしました。
「ああ! それ、わたしのお財布じゃないの!」
とつぜん、娘が叫びました。その途端、周りにいた人たちがなんだなんだと男を囲みました。
あせった男は娘をつきとばし、無理やり人の波をかき分け逃げ出しました。
「おい、いたぞ! あいつを追えー!」
男の後ろを、見回りをしていた王宮の衛兵たちが追いかけます。すると、衛兵のひとりがアランに声をかけました。
「よう、アラン! 久しぶりだな。あの男はおれたちがつかまえておくぜ。あいつ、掏摸の常習犯なんだ。悪いけれど、手柄はこのおれがいただくからな!」
衛兵はそういって、アランに向けて片目をつむりました。それはかつて一緒に暮らしていた盗賊のひとりでした。どういうわけか、盗賊から衛兵の道を歩むことになったのです――つくづく、運命とは不思議なものです。
アランが返事をするのも待たずに、衛兵たちはあっというまに、砂ぼこりを立てながら姿を消してゆきました。騒ぎ立っていた人々も次第に落ちつき、辺りはまたいつもの風景へと戻ってゆきました。
アランはそっと、転んだ娘に手をさしのべました。
「……だいじょうぶか?」
「あ、ありがとう……」
娘はアランの手を取り、立ち上がります。アランの顔を見上げた娘の頬が、ぽうっと赤くなりました。
「……このへん、掏摸が多いから。気をつけた方がいい」
アランはぶっきらぼうにそういって、押しつけるようにして娘に財布を返しました。
「まあ。いつのまに取り返したの?」
娘は目を丸くしながら、自分の財布を見つめました。アランは気まずそうに、頬をかきました。アランも、元は盗賊の一味。男が逃げ出す前に、男の手から抜け目なく財布をかすめとっていたわけです。
なにもこたえないアランに、娘は胸の前でぎゅっと財布を握りしめながらいいました。
「あ、あの……なにか、お礼をさせてくださらないかしら」
揺れる娘の髪を見て、アランは顔をそむけました。
胸がしめつけられるようでした。顔から血の気が引いてゆくのが、自分でもわかります。体がよろめくのを感じました。
「……いい。礼はいらない。それじゃ」
これ以上、この娘の前にいたら心が壊れてしまうような気がしました。なにもかも、そこに立つことすら耐えられなくなって、アランは逃げるようにその場を去りました。
早足で、自分の家へと帰りました。しまるような胸の苦しさはおさまらず、食欲はすっかりなくなっていました。
明かりもつけずに、アランはよろよろと力なく椅子に座りこみました。月の光だけが、机の前にあるちいさな窓からさしこんでいます。
さっきの娘の後ろ姿が、頭から離れません。
(ロレーヌ)
アランは心の中で、その名をつぶやきました。
アランにとってたったひとりだけの、大切な大切な女の子の名前でした。
忘れたことなど、一度だってありません。その一方で、思い出さないようにもしていました。思い出したら最後、心が苦しさや切なさにつぶれてしまうかもしれないからです。
けれど今日、ほんの些細なきっかけで、ロレーヌのことを思い出してしまいました。それからずっと、心が牢にとらわれてしまったように苦しいのです。
(……ロレーヌはもういない。もう、会えない)
アランは作業机に突っ伏しました。今日、店にやってきた男の嬉しそうな顔と、ルビーの輝きを思い返します。
あのルビーは、あの男にとって大切な人に贈られるのです。今まで自分がつくってきたものは、みんなそうやって人の手に渡っていったのです。それで喜ぶ人の顔を見れば自分も嬉しくなったし、そんなものをつくっている自分に誇りも感じていました。こうして、自分がつくったものが評判になっていることだって、とても喜ばしいことなのです。
けれど本当は、心からそれをうらやましいと思っていました。その人に会って、その手で贈り物をわたすことができるのが、うらやましくてなりませんでした。
(おれはもう、会えない。どんなに美しい宝石を見つけたって、それで指輪をつくったって、おれはそれを贈ることなんてできないんだ)
体が鉛のように重く感じられました。椅子にはりつけられてしまったかのように、動くことができませんでした。
月はいつのまにか雲に隠れ、辺りは闇に包まれました。
♪ ♫ ♪ ♫
だれかがいるような気配を感じて、アランは目を覚ましました。窓の外は闇が続いており、空気はひんやりとしています。
(だれだ……?)
作業机から体を起こし、振り向きます。その瞬間、心臓がどきりと跳ねました。
青くてきれいな髪を結った女の子が、そこに立っています。輝くふたつの瞳は、まるで翡翠のよう。
「アラン」
その子は鈴の鳴るような声で、アランの名を呼びました。その声に、アランの肩が震えます。
「ロレーヌ……」
アランはのろのろと立ち上がり、ロレーヌの元へと歩きました。
ロレーヌはアランの手を取って、微笑みました。
「アラン……わたしのこと、おぼえていてくれたのね」
「忘れるわけ、ないだろ。前に人魚の城で会ったときにも、そういったじゃないか」
「うん。でも、嬉しい……」
ロレーヌはじっと、アランを見上げました。そのおおきな瞳の中に、アランは吸いこまれそうになりました。
ただ見つめ合っているだけで、心臓の鼓動はますます速まりました。胸がしめつけられるようで、とても苦しいはずなのに、さっきまで感じていた苦しさとはまるで違うのでした。
「どうしてきみが、ここに……」
「……あなたに会いたくて、ここにきたの。アランってば、すこしのあいだにこんなに背が高くなったのね。前はこうして、あなたを見上げることなんてなかったのに。それに、顔立ちもなんだか凛々しくなって、わたしどきどきしちゃうわ。ああでも、それは前はかっこよくなかったっていうわけじゃなくてね……」
ロレーヌが頬を染めながらそういったので、アランもあわててこたえました。
「そ、そんなことないよ。おれより背が高い人なんて、山ほどいるだろ」
「ほかの人と比べなくたっていいの。アランは、アランなんだから。わたしは、あなたが好きなんだもの……」
見つめられたままロレーヌにそういわれて、アランはさらにどぎまぎとしました。体中が熱くなっているのがわかります。
「き、きみの方こそ、どうして子どもの姿じゃないんだ? きみは妖精で、妖精は人間よりも歳をとるのが遅いはずだろ」
「あなたのいうとおり、妖精の寿命は人間よりもずっと長いわ。でも……体の成長は、妖精それぞれによって違うの。子どもの姿が長い妖精もいれば、大人の姿が長い妖精もいるのよ」
そういうものなのか、とアランは首をひねりました。それでも、素直にうなずけません。その話が本当ならば――ロレーヌは今もこの世に存在して、成長しているということになるのですから。
(ロレーヌ、きみは……きみは、生きているのか? 五年前、おれの前で泡となって消えていったきみは、夢だったのか?)
戸惑うアランの表情を見て、ロレーヌは寂しげに微笑みました。
「わたしは……わたしは、すこし違うの。自分で望んで、この姿になったの。あなたの隣に、並びたかったから。大人になった、あなたの隣に……あの、変かしら……」
アランははっとして、いそいで首を横に振りました。
「変なんかじゃないよ。その……すごく、きれいだとおもう」
アランは顔を赤くしながら、ぼそぼそとつぶやきました。つぶやいたあとに、今自分はものすごく恥ずかしいことを口にしたんじゃないかと思いました。あわててごまかそうとしましたが、時はすでに遅し。ロレーヌには、しっかりときこえてしまっていました。
ロレーヌは幸せそうに、本当に幸せそうにはにかみました。
「嬉しい。こんな気持ちを抱くのは、あなたにだけだわ……」
気がつけば、アランの体は勝手に動いていました。ロレーヌの手を握って引き寄せ、その体を強く抱きしめました。
「もう、どこにも行くな。きみが生きているか、死んでいるかなんてどうでもいい。これが夢か現実かなんてどうでもいい。こうしてもう一度会えたのなら。もう二度と、きみを離したくない」
ロレーヌは驚き、そのおおきな瞳をさらに見開きました。
やがて、ロレーヌの瞳から涙が一粒、落ちました。
アランの腕の中で、ロレーヌは悲しげな顔をしながらアランの頬に手をそえました。
「アラン……ごめんね」
「……どうして、謝るんだよ」
「わたしはもう、一緒にはいられない。それなのに、こうして会いにきてしまった……あなたを苦しめてしまった。ごめんなさい」
ロレーヌは、アランの頬にそっと唇を寄せました。
「アラン。どうか、幸せになって……」
「まってくれ! ロレーヌ、いくな!」
アランはもう一度、強くロレーヌの体を抱きしめようとしました。けれど、どれほど力をこめたって、ロレーヌはもうどこにもいないのです。
「……おい。だいじょうぶか?」
目を開けると、ラムールが心配そうにアランの顔をのぞきこんでいました。窓から光がさしこんでいます。いつのまにか、夜が明けていたのです。
「顔色がよくないぞ。まさか、夜通しで指輪をつくっていたのか? 根をつめすぎるなよって、あれほどいったじゃないか」
「……違うんです。ただ、ここで寝ていただけで……」
アランはラムールにそういいながら、体を起こしました。ずっと椅子に座ったままだったせいか、ひどく体が痛みました。まだ、頭の芯がぼんやりとしています。
(夢、か……)
ふだん見る夢とは、すこし違ったように思えました。こうして目を覚ましてからも、夢でのできごとを鮮明に覚えています。ロレーヌのことばも、ロレーヌを抱きしめたときの感触だって、はっきりと覚えているのです。
(……でも、夢は夢だ。あのロレーヌは、おれが想像しただけの姿だ。会いたかったといってくれたのも、好きだといってくれたのも……全部、おれにとって都合のいい夢なんだ。本物のロレーヌが会いにくるなんて、そんなことはありえない……)
夢を見ているあいだは、ロレーヌを抱きしめられた幸せで満たされていました。けれどこうして目を覚ましてみれば、アランの心に残されたのは夢である切なさだけ。ああ、なんて残酷な夢なのでしょう! ロレーヌへの恋焦がれる気持ちは、夢を見る前よりもさらに膨らんでいました。そして、ロレーヌがもういないという現実だけが、アランの心に破片のようにつきささるのです。
ラムールは心配そうな顔のまま、アランにいいました。
「今日は一日、休みなさい。指輪をお客さまに渡すのは半月後なんだ、まだ時間はあるだろう。自分じゃ気づいていないのかもしれないが、本当にひどい顔をしているよ」
たしかに今の自分が指輪をつくったって、いいものができあがるとは思えませんでした。椅子から立ち上がる気すら起きません。ラムールの気づかいに甘えることにして、アランはちいさくうなずきました。
「気分転換に、外に出てみたらどうだ? 昨夜はめずらしく雨が降ったから、空気が新鮮だよ」
雨が降っていたなんて気がつきませんでした。昨夜に感じた、ひんやりとした空気は夢ではなかったようです。これ以上、ラムールに心配をかけるわけにもいかなかったので――アランは、重い腰をあげました。
外に出てみると、地面におおきな水たまりができていました。そこに、からりと晴れた青空が映っています。
澄んだ空気を吸っているうちに、頭の中がだんだんとはっきりとしてゆきました。けれど、心はますます暗くなるばかり。この空のように、晴れ渡ることはありませんでした。
アランは、朝の光の中を歩きました。あてもなく、ふらふらと。なんとなく、海の方へと向かっていました。
朝日に照らされ、輝く海の横をアランはただ歩いてゆきました。
♪ ♫ ♪ ♫
やがて、いくつもの大岩が積み重なった岩場にたどりつきました。
(ここは……)
アランは、岩場の前で立ち止まりました。ここはかつて、アランが盗賊たちや、ロレーヌともに暮らしていた洞窟がある場所でした。
(どうして、ここにきたんだろう……)
今はもう、ここにはだれも住んでいないはずです。用があるわけでもありません。それなのに、まるでなにかに導かれるように、アランはここまでやってきていました。
特別な呪文をとなえないと、岩の扉は開かないようになっていました。その呪文を、アランはまだ覚えていました。
「ひらけ、ゴマ」
呪文をとなえてみました。すると、岩が見えない力にひきずられるようにして開いてゆきます。アランの目の前に、暗い洞窟の入り口が現れました。
しんと静かな洞窟内に、かすかな潮の香りと、波の音がきこえていました。いつもこの波の音をききながら、盗賊たちと眠っていたのです。音も香りも、とても懐かしく感じられました。
その音に混じって、人の声がきこえたような気がしました。
(奥に、だれかいるのか?)
前に一度、ほかの盗賊団にこの洞窟をとられてしまったことがありました。油断は禁物です。アランは息をひそめながら、足音を立てぬように洞窟の奥まで進んでゆきました。
(……なんだ、あれ)
洞窟の奥に、一箇所だけ岩の天井にちいさな隙間があります。そこから天窓のように、日の光がさしこんでいました。
そしてその光の下に、金色に輝く木が育っていたのです。
木の根本にもたれかかるようにして、ちいさな女の子が目を閉じて座っていました。
その光景に、アランは息をのみました。なんて不思議で神々しくて、そして美しい光景なのでしょう。
(眠っているのか? まさか、死んでいるんじゃないよな……)
アランは、すこしずつその子の元へ近寄りました。くるりとした、癖のある茶色い髪はぼさぼさで、まるで頭の上に鳥の巣がのっているように見えました。おまけに服はぼろぼろだし、体は砂まみれです。
夢でも見ているのでしょうか、なにやらむにゃむにゃと寝言をいっていました。さっききこえていた音は、この子の声だったのです。
その子は「ううん」とうなりながら、目を開けました。そして、ゆっくりとアランを見上げました。目が合います。
アランは、その子から目を離すことができませんでした。ぼさぼさの髪からのぞく瞳は、翡翠のように美しく輝いていたのでした。
(……ロレーヌと、同じ色の瞳)
その子はアランを見つめたまま、首をかしげました。ちらりと見えた耳の先が、とがっています。人間のものとは違うその耳に、アランは目を見張りました。
(……この子は、妖精なのか? どうして、妖精がこんなところに)
すると、その子はぱっと花が咲いたかのように笑いました。
「パパ!」
アランはぎょっとしました。どうやらこの子は、アランを父親だと勘違いしているようでした。十七歳である自分を、です。そんなに歳をとっているように見えるのかな、とアランはすこし複雑な気持ちになりました。
「ち、違う。おれは父親じゃない」
「あれえ? じゃあ、にいに?」
「おにいちゃんでもないよ。いったい、だれとまちがえているんだ。おまえとおれは、家族でもなんでもないだろ」
そういっても、その子は首をかしげるだけ。すこしも納得していないようでした。
アランはため息をついて、女の子に問いかけました。
「おまえ、どうしてここにいるんだ?」
「き!」
女の子はにこにこしたまま、金色に輝く木を指差しました。
(……そういえば、妖精は木から生まれるって話を前にきいたな。じゃあ、この木がその、妖精の木なのか?)
そうだとして、いったいどうしてこんなところに生えているのでしょう。幼いころに盗賊たちと暮らしていたときも、そして五年前に旅の途中にここにやってきたときにも、こんな木の姿はなかったはずです。いいえ、気がつかなかっただけで、じつは芽が出ていてすこしずつ成長していたのでしょうか。
「ずっとひとりなのか?」
「んーん。とりさんもいるよ!」
女の子がそういったとき、天井の隙間から、一羽の鳥が入りこんできました。鳥は女の子の前に降り立つと、その前に木の実を置きました。
「ありがとお」
女の子はお礼をいうと、木の実をもりもりと食べはじめました。鳥は一声鳴くと、アランの方を振り向きました。
するどい目が、アランをじっと見ています。「あんた、だれ?」といっているように見えて、アランはすこしたじろぎました。
「あのね、あのねえ、ボクのパパなんだ」
女の子は、鳥にそういいました。だからパパじゃないだろ、とアランは思いましたが、とりあえず黙っていました。鳥に説明したって、わかってもらえるわけがありません。
しかし、鳥はそれにこたえるかのようにまた一声鳴くと、アランに首をさげたのです。そして、再び天井の隙間を抜けて飛び立ってゆきました。
「どうなっているんだ……」
まるで、鳥がその女の子のことばを理解しているようでした。
すると、木の実を食べ終えた女の子がアランに飛びつきました。手や口の周りについた木の実の汁が、アランの服に飛び散りました。
「えへへ。いっしょ!」
「お、おい。おれは、一緒にいるだなんて一言も……」
アランは顔をしかめて、やんわりと女の子を引きはがそうとしました。けれどその子は離れるどころか、ますますアランに強くしがみつきました。
「あ、あっち行けよ」
「やー!」
女の子はやたらおおきな声で叫び、アランのお腹に顔をこすりつけました。絶対に離さない! という強い意思を感じます。
困ったことになった、とアランは途方にくれました。まさかこの洞窟でちいさな子どもと出会って、そして懐かれてしまうなんて思ってもいませんでした。しかし残念なことに、頼れる人はほかにだれもいないのです。
女の子は瞳をきらきらとさせて、アランを見上げました。なにも恐れていない、無垢なその表情に、アランはなにもいえなくなってしまいました。
(……この子が、ひとりでここを出たらどうなる? この子を見つけた人売りが、この子をつかまえて奴隷にするかもしれない。妖精を、見せ物にしようとするやつだっているかもしれない。ロレーヌだって、そうさせられてたんだ……)
もしもそんなことになったら、この子は自由を奪われ、牢の中にとじこめられることになるのです。むちを振るわれるかもしれません。この子の輝くような笑顔は、二度と見られなくなってしまうでしょう。
アランは、深くため息をつきました。
「……わかったよ。一緒にこい」
「やったあー!」
「すこしのあいだだけだからな。おまえを育ててくれる人が見つかったら、その人のところへ行けよ」
アランは釘を刺すようにいいましたが、女の子はもうきいていないようで、両手を広げながらアランの周りをぐるぐると走りました。
しばらくは、この子と過ごすことになりそうです。考えただけで、アランは先が思いやられました。だれかと一緒に暮らすのはずいぶんと久しぶりのことだったし、そしてなにより、こんなにもちいさな子ども(しかも、女の子です!)の相手をしたことなど一度だってありませんでしたから。
「はやくいこ!」
女の子は走るのをやめて、アランの手を握りました。アランはかがんで、女の子の口元についた木の実の汁をぬぐってあげました。
「パパ、ありがとお」
「だから、パパじゃないってば。アランだよ。そう呼んでくれ」
「アラン」
女の子は元気よくこたえました。
「おまえ、名前は?」
「なまえ?」
女の子はきょとんとした顔で、アランにききかえしました。単に忘れているだけなのか、それとも名前がまだないのでしょうか。いずれにせよ、名前がないのはすこし不便だなとアランは思いました。
「その人を呼ぶときに必要なのが名前だよ。おれが、アランって呼ばれてるみたいにさ」
「ふうん。いいな、いいなあ。ボクも、なまえがほしいよう……」
女の子は、寂しそうにつぶやきました。やれやれ、とアランは肩を落としました。それからすこしばかり考えて、女の子にいいました。
「……ヒスイ。おまえの瞳の色と同じ、宝石の名前だ。これでいいだろ」
「ボクのなまえ、ヒスイ?」
「そうだよ。気にいらないなら、自分で考えろ」
そういいながら、名前って自分で考えるものじゃないよなとアランは思いました。女の子はぱっと顔を輝かせて、その場で飛び跳ねました。
「ボクのなまえは、ヒスイ!」
ごきげんな様子を見て、アランはほっと息をはきました。ヒスイはアランの手を引っ張るようにして、洞窟の外へと歩き出しました。
♪ ♫ ♪ ♫
アランが店に戻った途端、ラムールは目を丸くしました。
「おいおい、いったいなにがどうなっているんだ? こりゃまた、ずいぶんとめんこい子と一緒じゃあないか」
ラムールは、アランの背中で眠るヒスイを見つめました。ヒスイはここに帰ってくる途中に疲れて眠ってしまったので、しかたなくアランがおぶって帰ってきたのです。
アランは、ラムールにヒスイのことをどう説明しようか迷ってしまいました。この子は妖精で、妖精は木から生まれるもので、昔住んでいた洞窟の奥にその木が生えていて、なぜそこに生えていたのかはわからなくて――アランの頭の中は、今にも爆ぜてしまいそうでした。それにこれらを話したところで、ラムールはわかってくれるでしょうか。
アランが困っていると、ラムールはなにかひらめいたように、ぽんと手を打ちました。
「わかった。アランの妹だろ? ほら、髪の色も同じだし、よく見ると顔立ちもすこし似ている気がするし」
似ているといわれたことにアランは驚きましたが、とっさにうなずきました。ラムールに悪いとは思いましたが、これで説明はしなくてもすみそうです。
「そうか……まさか、アランに妹がいたなんてなあ。いいや、なにも話さなくていいよ。きっと、いろいろと事情があったんだろう。とにかく今はただ、家族との再会を喜びなさい」
ラムールは勘違いをしたまま、うんうんとうなずきました。うっすらと涙まで浮かべています。
「女の子なのに髪もぐちゃぐちゃで、こんなにも汚れちゃってなあ……この子も苦労してきたにちがいない。よかったなあ、兄さんとまた会うことができて」
ラムールは優しく、ヒスイの頭をなでました。
「あ、あのう……とりあえず、おれの部屋に寝かせてきます」
「ああ、そうだな。ごめんよ、引き止めて。アランも、今朝にくらべてずいぶんと顔色がよくなったじゃないか。元気になったようでよかったよ」
アランはすこし気まずそうにラムールに頭をさげて、そそくさと自分の部屋へと向かいました。そしてベッドの上に、すやすやと寝息を立てているヒスイを寝かせました。
たしかに、髪の色は自分とよく似ていました。それに、くるりとした毛先も。顔立ちは、はたして似ているのかよくわかりませんでした。それよりも、瞳の色がロレーヌと同じであることの方が気になりました。
(……偶然だろ。ほかの妖精たちだって、瞳はみんな緑色だったし。まったく同じ色の子がいてもおかしくないよな)
これからこの子の瞳を見るたびに、ロレーヌのことを思い出すのかもしれません。そのたびに、もう会えない悲しみを感じることになるのでしょうか。
(……気にしないようにしよう。この子は、ロレーヌとはなにも関係ないんだ)
それよりこれからどうしようかと、アランは腕を組みました。子どもの世話など、当然やったことはありません。
(妖精って、木から生まれるんだろ? ということは、父親と母親はいないのか?)
それならばなおさら、ヒスイが自分を父親だと勘違いしたのが不思議に思えました。ヒスイはいったいなぜ、人間である自分を父親だというのでしょう。
(妖精のことはよくわからない。でももしかしたら、この子にはおれに似た父親がいるのかも。それなら、そのひとを探すのがいいんだろうな)
それまでは、ヒスイの世話は自分がやるしかありません。
初めは、ラムールに事情を話してヒスイを引き取ってもらうつもりでいました。しかしラムールはヒスイをアランの妹だと思いこんでしまったし、そもそもヒスイを見つけたのは自分なのです。それを放り出して、人任せにするのはよくないように思えました。
とりあえず、やるだけやってみようとアランは決めました。
夕方になって、ヒスイは目を覚ましました。目をこすりながら、机に向かっていたアランの元へとやってきました。
「アラン、おなかすいたよう」
そういったと同時に、ヒスイのお腹が鳴りました。たしかに、もうじき夕ご飯の時間です。
「なにが食いたいんだ?」
「やきにく!」
ヒスイは元気よくこたえました。肉は、市場まで買いにいかなければなりません。アランは立ち上がり、財布を手に取りました。
「買ってきてやるから、留守番してろ」
「やー! いっしょにいく!」
アランはため息をつきました。これから毎日、このわがままに付き合わされるはめになるのかと思うと、気が遠くなりました。
ヒスイはさっきから手足をばたばたさせています。しかたなく、アランはヒスイと手をつなぎました。すると途端に、ヒスイはおとなしくなってにこにこしました。
店の看板は、ラムールが代わりにひっくり返してくれていました。ふたりは並んで、市場へと歩き出しました。
ヒスイはきょろきょろと、めずらしそうに市場を見回しました。なにか気になるものを見つけては、そこへ向けて駆け出そうとするので、そのたびにアランはヒスイの手を強く握り直さなければなりませんでした。
「勝手にどこかへ行くなよ。迷子になるだろ」
「ここって、とてもたのしいねえ、わくわくするねえ」
アランが眉を寄せながら怒っても、ヒスイはにこにこしっぱなしです。怒ったところでどうせきいちゃいないだろうなと、アランは早々にあきらめることにしました。
ヒスイはおそらく、ずっとあの洞窟にいたのです。それならば、こうしてにぎやかな景色を見るのも初めてなのでしょう。
ヒスイのはしゃぐ姿に、幼いころの自分の姿が重なりました(アランはヒスイと違っておとなしかったので、こうしてはしゃいだりすることはありませんでしたが)。
それでも、初めてみんなと行った市場はきらきらしていて、楽しくて、そしてなにより、自分の手を握ってくれていた人の温かさを、アランははっきりと覚えていました。
途中で、ヒスイと同じ歳ほどの女の子とすれちがいました。
その子は上等な布を何枚も折り重ねた服を着て、宝石のついた腕輪をいくつもはめていました。髪だって艶があって、櫛を通す必要もないほどさらりとしていました。
女の子は父親と母親と手をつなぎながら、楽しそうに市場を通りすぎてゆきます。
「わあ……」
ヒスイは声をあげ、すれ違った女の子をいつまでも目で追いました。そうして、そっと自分のぼろぼろの服と見比べました。
靴もはいていないヒスイの足は、泥や土で真っ黒です。砂風になぶられる髪は、今もぼさぼさのままでした。
立ち止まっているヒスイの手を、アランが引きました。
「ほら、さっさと行くぞ」
「さっきのこ、おひめさまみたいだったよう」
「たぶん、裕福な家の子どもなんだよ。それだけだろ」
アランがもう一度手を引くと、ヒスイは何度も振り返りながら歩き出しました。
それから肉屋で羊の肉を買って、ふたりは家へと帰りました。
久しぶりに、豪華な食事となりました。アランが作った料理を、ヒスイは夢中で食べました。
「おいしいよう」
ヒスイは懸命に、焼いた肉を口に運んでいます。そして口の周りをべたべたにしながら、アランにとびきりの笑顔を向けました。
「そうか。うまいか」
だれかに料理を振る舞うのは、本当に久しぶりのことでした。だれかと一緒に、ご飯を食べるのもです。
(自分がつくったものをおいしいといってもらえることって、こんなにも嬉しかったんだな)
そんな当たり前のことを、すっかり忘れてしまっていました。
ご飯を食べたら、ヒスイはころんと眠ってしまいました。やれやれとため息をつきながらも、アランはヒスイをベッドへと運んであげました。
そして、そっとヒスイの髪をなでました。
(ずっと、ひとりぼっちだったんだろうな)
あの洞窟に、ほかにだれかがいたような形跡はありませんでした。呪文を知らなければ入ることはできないし、つまりヒスイのことを知っているのは、おそらく自分だけなのです。
複雑な気持ちでした。ヒスイが悪い人間につかまらなくてよかったと思う一方で、どうして自分が、この子の面倒をみなければならないのだろうとも思いました。ヒスイと自分は、本当の家族ではないのですから。あのとき、なんとなく洞窟に入ってしまった自分の行いをすこしうらめしく思いました。
(まあ、なんとかやっていくしかないか)
しかし、その「なんとか」がどれほど大変であるかを、このときのアランは知るよしもなかったのです。
♪ ♫ ♪ ♫
「あさだよう、アラン! おきてー!」
日の出とともに、ヒスイが叫びながらアランの背中にしがみつきました。ぐわんぐわんと揺れる鐘のように、頭の中にヒスイの声が響きます。
もうすこし寝ていたいとアランは思いました。昨日はあまり眠れていなかったし、それにいろいろなことがありすぎて、とても疲れていたのです。しかしヒスイがいつまでも背中を揺さぶるので、しかたなく体を起こしました。
ヒスイと朝ご飯を食べたあと、アランはすぐに作業机に向かいました。男に頼まれた指輪をつくるのはもちろん、ほかにもやらなければならない仕事は山ほどあるのです。
「ぶうーん」
その後ろで、ヒスイは元気よくベッドの上で飛び跳ねたり、走りまわったりしています。やかましくてしかたありません。静かだった作業部屋を、アランは恋しく思いました。
「おい、静かにしろよ。あと、ベッドは飛び跳ねるためにあるんじゃない」
アランは振り向き、顔をしかめながらヒスイにいいました。
「すごくたのしいよ! アランもいっしょにやろ!」
「やらないよ。いいから、おとなしくしてろ」
アランはすこしいらだちながら、再び机の方へと向き直りました。その手には、一昨日に男からあずかったルビーがあります。それと、上等な銀のかたまり。この銀をすこしずつ溶かしながら、土台となる指輪をつくり、最後に宝石をはめこむのです。指輪のデザインを描いた羊皮紙も、机に広げました。
集中しなければ、いいものを作ることはできません。いつもなら、机に向き合えばすぐに物作りの世界に入りこむことができました。しかし、今日はさっきから気が散ってばかりいます。
(これ、半月後までに、完成させられるのか……?)
頭の中に、そんな不安がちらりとよぎりました。あの男は、遠いところから砂漠へとやってきたのです。旅の予定もあるでしょうし、一日でも期日を延ばすわけにはいきません。いいえ、たとえ男がこの都に住んでいたとしても、大事なお客さまとの約束を守ることがいかに大切であるかを、アランはよくわかっていました。
すると、ばきりと嫌な音が部屋に響きました。おそるおそるふりかえります。
見事にベッドの足が折れて、斜めにかたむいていました。ヒスイがベッドの上で飛び跳ねすぎたのです。
「だから、飛び跳ねるなっていったじゃねえか……」
頭がいたくなるような思いをしながら、アランがいいました。そして、ヒスイの両腕にいくつもの腕輪がはまっているのに気がつきました。いやな予感がします。
「おい、この腕輪はどうしたんだ?」
「きれいでしょ! おひめさまみたい?」
ヒスイは得意げな顔をしながら、腕輪を見せびらかしました。それと同時に、店の方からラムールの悲鳴がきこえました。
アランが店の方へ飛んでゆくと、ラムールが青ざめています。
「大変だあ! 商品がぐちゃぐちゃだよ……」
美しく並んでいた宝飾品の棚が、まるで泥棒にでも入られたかのように荒れていました。耳飾りは左右がばらばらだし、首飾りは鎖がからまってしまっています。腕輪はひとつもなくなっていました。だれの仕業なのか、当てはまる人物はもちろんひとりしかいません。
「す、すみません! すぐに、元に戻します」
アランも真っ青になって、部屋にいるはずの犯人の元へと向かいました。
そして、アランは唖然としました。ヒスイが自分の机に座っています。
「ふんふーん、ふんふん」
ヒスイは鼻歌なんかうたいながら、机の上で文字を書くための炭の棒を動かしていました。その手はすっかり、真っ黒に汚れています。
アランは、いそいでヒスイから羊皮紙をひったくりました。ああ、なんということなのでしょう。せっかく描いた指輪の絵の上に、太い線でくっきりと落書きされているではありませんか! これがなければ、指輪をつくることはできないというのに!
アランはいよいよ、めまいを起こしそうになりました。膝から崩れ落ちそうになるのを必死でこらえます。
そしてヒスイの前にかがむと、そのちいさな肩に手をのせました。
「いいか、よくきけ。ベッドで飛び跳ねるのは許してやる。でもこの机の上にあるものと、あっちの棚にあるものは絶対にさわるな。棚のものはラムールさんの大事なもので、机の上にあるものはおれの大事なものなんだ。わかったか?」
低い声でアランがいうと、さすがのヒスイもまじめな顔つきになって「わかった。さわらない」といいました。
「それと、この腕輪もラムールさんのものだ。だから、勝手に持っていったらだめなんだ」
ヒスイの腕から腕輪を外すと、ヒスイはとても悲しそうな顔をしました。すこしかわいそうになりましたが、しかたがありません。宝石のついた腕輪を買えるほどアランは裕福ではなかったし、そもそも腕輪はどれもヒスイにはおおきすぎるのでした。
ふたりで謝りにいくと、ラムールは笑ってゆるしてくれました。
「女の子は、いつだってきらきらしたものが好きだからなあ。ヒスイちゃんがおおきくなったら、好きな男の子にでも買ってもらいなさい。男ってのは、そのためにいるようなもんだからね」
ラムールのことばが、はたして真実なのかアランにはわかりませんでしたが――とにかく、ラムールが優しい人でよかったと、アランは心から思いました。
アランは再び、自分の机に向き直りました。その隣では、ヒスイがまだしょんぼりとしていました。腕輪をはずされてしまった自分の両手を、悲しげに見つめています。
しかたなく、アランはまた手を止めてヒスイに声をかけました。
「……そんな顔をするなよ」
「ボクも、おひめさまになりたいよう……」
「あのな。きれいなものを身につけたからって、お姫さまになれるわけじゃないんだぞ」
「……」
ヒスイは唇をぎゅっとかみしめ、その目にはじんわりと涙がたまっています。
アランは困り果ててしまいました。ちいさな女の子をなぐさめる方法なんて、アランは知らないのです。かといって、このままヒスイを放っておくわけにもいきません。
いったい、どうすればヒスイは機嫌をなおしてくれるのでしょう。アランはすがるように、かつてともに旅をしていた仲間のことを思い出しました。
(みんななら……楽器を弾いてあげたり、歌をうたってあげたり、本を読んであげたりするんだろうな。おれは、どれもできない。どうすりゃいいんだ)
頭を抱えたくなりました。ヒスイは、今にも泣きそうな顔で体を震わせています。
そのとき、青緑色に輝く鳥の羽がアランの目に止まりました。五年前、旅をしていたときに川辺で拾ったものです。あまりにきれいな色をしていたので、今も部屋に飾っていたのでした。
その羽を、アランは手に取りました。
「……ほら、こっちにこい」
アランは、ヒスイを自分の膝に座らせました。
そして、ヒスイの長い髪をとかしはじめました。癖はあるけれど、艶のある茶色い髪。本当に、自分の髪とそっくりでした。
できるだけ丁寧にヒスイの髪をとかして、そしてふたつに結ってあげました。ふわふわとした、わた雲のような毛束がふたつ、ヒスイの頭にできました。
そして、仕上げに手に取った青緑色の羽を、ヒスイの髪にさしてあげました。
「これで、すこしはお姫さまらしくなっただろ」
「わあ……!」
鏡に映った自分の姿を見て、ヒスイの瞳はまた輝きを取り戻しました。何度も髪を触ったり、その場でくるくる回ったりしました。
「わーい、わーい! おひめさま!」
すっかりごきげんになって、ヒスイはアランにひまわりのような笑顔を向けました。ぼさぼさの髪に隠れていた瞳が、さらにはっきりと見えました。
本物の翡翠のようでした。アランはまた、しばらくその瞳から目が離すことができませんでした。
その夜、ふたりは壊れたベッドの修理をしました。米をつぶして糊をつくって、折れた足に塗って固めました。
「ボクのせいで、けがしちゃった」
ヒスイがぽつりとつぶやいたので、アランはすこし考えて、ベッドの足に包帯を巻きました。
「けがは治療すれば、ちゃんとよくなる。だから心配するな」
ヒスイはしゃがんで、ベッドの足をそっとなでました。
♪ ♫ ♪ ♫
次の日、アランはもう一度指輪の絵を描きなおしていました。いつもなら、とっくに指輪の土台をつくりはじめているはずでした。それが、また振り出しにもどってしまったのです。
落書きされてしまった羊皮紙を眺め、アランは眉を寄せました。ヒスイは、いったいなにを描いていたのでしょう。ヒスイの落書きは、なにかの形をかたどっているようにも、ただの線の集まりのようにも見えました。
一日かけて、アランは指輪の絵を完成させました。時間はかかりましたが、最初のものよりもうまく描けたので、描き直してよかったかもなと思いました。
(たった一日、作業が遅れただけだ。明日から集中してつくれば、半月後までに間に合うだろ)
アランはそう考えていました。そしてそれは、とても甘い考えでした。ヒスイの面倒をみながら指輪をつくるのは、思っていた以上に大変なことだったのです。
ベッドの上で飛び跳ねることはなくなりましたが、ある日は水桶をひっくり返して部屋中を水浸しにしたり、またある日は食器を割ったり。勝手に戸棚を開けて、とてもからい香辛料を舐めて大泣きすることもあれば、胡椒の瓶をぶちまけてくしゃみが止まらなくなることもありました。
とにかく、落ちつきがありませんでした。毎日、なにかしらの事件が起きては部屋の中が台風が過ぎたかのようにめちゃくちゃになるので、そのたびにアランは作業を止めて掃除をしなければなりませんでした。そうしているあいだにも、時間は刻々とすぎてゆくのです。
「たのむから、これでおとなしく遊んでろ!」
アランはげっそりとした表情でヒスイにいい、羊皮紙の束と炭の棒を渡しました。ヒスイは喜び、絵を描くのに夢中になりました。
ほっとしたのも束の間、今度は「きらきらをかいて!」とか「おしろをかいて!」とか、すぐにわがままをいうのです。ヒスイに絵を描く道具を渡したことを、アランは一瞬で後悔しました。
ヒスイはそのちいさな体に似合わないほどよく食べるので、毎日のように市場に買い物に行かなければならないのも大変でした。おかげですっかり、肉屋の店主とも顔見知りになってしまったほどです。
元々、アランは人の多いところはあまり好きではありません。人と話すことだって得意ではないのです。なるべく静かに、ひとりで星でも見ながら暮らしたいのに、ヒスイがやってきてから、夜空を見上げる暇すらありませんでした。
それでも、おいしそうに料理を食べるヒスイの姿を見ていると、どうしてだか悪くない一日だったと思えてしまうのでした。
あわただしく月日は流れ、男が指輪を受け取りにくる日が近づいてきました。
アランの手の中には、立派な輝きを放つ指輪がありました。
もう、何日もろくに眠っていません。その証拠に目の下には隈ができていたし、頬はこけ、髪の毛には艶がなくなっていました。それでも、アランの心は満たされていました。
銀の指輪は顔が映るほどにしっかりと磨かれ、輪っかの部分には細かく薔薇の蔓や葉の模様が彫られています。そして、頂点にはあのルビーがぴったりとはまっていました。
我ながら、ほれぼれするような出来栄えでした。今までつくってきたどんな装飾品よりも、うまくできたように思います。同じものはもちろん、これと似たものだって、もう二度とつくれはしないでしょう。
思わず指輪にみとれていると、ヒスイも寄ってきてアランの手の中の指輪を見つめました。おおきな瞳の中に、指輪にはまったルビーの光が映りこみました。
「きれい。アランが、これ、つくったの?」
そうだとこたえると、ヒスイは笑顔でアランを見上げました。
「すごい、すごーい! アランは、まほうがつかえるんだ!」
大げさだな、とアランは思いました。けれど褒められて悪い気はしません。頬が緩まないように気をつけながら、アランは神妙な声でヒスイにいいました。
「絶対にさわるなよ。これは、とても大事なものなんだ」
ヒスイはうなずきました。でも、その瞳はうらやましそうに、じっと指輪を見つめていたのでした。
大事件が起きたのは、その夜のことでした。アランはひとりで、ヒスイのご飯を買いに市場に出かけていました。めずらしく、ヒスイは自分から留守番をするといったのです。
一仕事が終わって機嫌がよかったアランは、ヒスイに袋いっぱいのなつめやしも買ってあげることにしました。甘くてやわらかいなつめやしは、ヒスイの大好物でした。きっと、目を輝かせて大喜びするでしょう。そんなヒスイの姿を思い浮かべると、なんだかお腹の底がくすぐったくなるような、そんな気分になりました。
半月前の自分なら、そんなふうにはならなかったでしょう。ヒスイのことを気にかけている自分を、すこし複雑に思いました。
しかし、ヒスイの元へと帰ったアランは目を疑いました。机の上に置いておいた指輪がなくなっています。市場へ出かける前は、たしかにあったはずでした。
「おかえりなさあい。アラン、あのね、あのね」
ヒスイがとてとてと、アランの元へとやってきました。一枚の羊皮紙を、大事そうに持っています。
アランはこぶしを握り、ヒスイの方を振り向きました。
「指輪をどこへやった?」
ヒスイはびっくりしたように目を見開きましたが、すぐに首を横に振りました。
「しらない」
「嘘をつくな。おれが出かける前にはあったんだ」
「ほんとだよう。だれかが、もっていっちゃったのかも……」
「だれかってだれだよ? ラムールさんはいないし、おまえ以外のだれが持っていくっていうんだ!」
アランの怒った声に、ヒスイはびくりと体を震わせました。
たしかにヒスイの指には、指輪はありませんでした。それでも、アランはヒスイのいうことが信じられませんでした。きっと、指輪を返したくなくてどこかに隠しているにちがいないのです。
「じゃあ、どうして留守番するなんていったんだ? いつもは、ついてくるだろ」
「そ、それは……」
ヒスイはことばをつまらせ、うつむいてしまいました。
虚ろな目で、アランはヒスイを見下ろしました。怒りに混じって、悲しさややるせなさがアランの心を渦巻きました。
「……あんなに、触るなっていったじゃないか。どうして、おれとの約束が守れないんだ。そんなに、おれを困らせたいのかよ。おまえのせいで、おれの生活はめちゃくちゃなんだ」
「ア、アラン……」
「もう、うんざりだ。おまえの面倒をみるのも、おまえの顔を見るのも。指輪を返せ。指輪を置いて、ここから出ていけ」
アランは叩きつけるように、なつめやしの袋を机に放りました。袋の口から、ヒスイのために買ったなつめやしが転がりました。
ヒスイはうつむいたまま、手に持っていた羊皮紙をくしゃりと握りしめています。背中を丸めた、ヒスイのちいさな体がますますちいさく見えました。
まるで石になってしまったかのように、ヒスイはずっとそこに立っていました。
ぎり、とアランの歯が鳴りました。動かないヒスイを見て、心に棘が生えたかのようにいらだつのを感じました。ふたりきりのこの部屋が、息がつまるように苦しく思えました。
アランは、深く息をはきました。そして乱暴に扉を閉め、部屋を出てゆきました。ヒスイを、部屋に残したままにして。これ以上、この部屋にいるのが我慢できなかったのです。黙ったまま動かないヒスイを、見ていたくなかったのです。
体は、とても疲れていました。それでも、アランは夜の砂漠を歩き続けました。とにかく、ひとりきりになりたいと思いました。
夜の砂漠に座りこみ、アランはうなだれました。月も星も、眺める気になれませんでした。
市場のにぎわいが遠くにきこえていました。人々が照らす灯りが、アランの虚ろな目にただぼんやりと映っていました。
♪ ♫ ♪ ♫
夜が明けました。アランは今にも死にそうな顔つきで、自分の家へと帰りました。
明日には、男が指輪を取りにやってくるのです。もしもヒスイが指輪を返さないのなら、またあの子をしからなければならないのです。そう思うと、心はさらに憂鬱になりました。
部屋の中は暗く、しんとしていました。この数日間、あんなにも騒がしかったのが嘘のように思えました。
「ヒスイ……?」
暗い部屋に向かって、そっと呼びかけてみました。返事はありません。
ヒスイの姿は、どこにもありませんでした。指輪もありません。ぞんざいに置かれたなつめやしの袋だけが、そのままそこに残っていました。
「あいつ……どこに行ったんだ」
「やあ、おはよう……って、どうしたんだ? またずいぶんと、顔がやつれてしまっているじゃないか」
いつのまにかラムールがそばにやってきていて、心配そうな顔をしながらアランにいいました。そしてだれもいない部屋を見回し、首をかしげました。
「ヒスイちゃんはどこにいったんだ?」
「……わかりません。探しにいかないと……あいつは、ルビーの指輪を持っているんです」
アランはかすれた声でこたえました。ラムールは驚いたように目を見開きましたが、すぐに落ちついた表情で、アランの手を取りました。
「なにがあったのか、話してみなさい」
ラムールはアランの話をきくと、静かにアランに問いかけました。
「よく、考えてみるんだ。本当に、ヒスイちゃんが指輪をとったのか? きみは、それを見たのか? 見ていないだろう。あの子自身も、知らないといっていた。それなのになぜ、あの子が持っていると言い切れるんだ?」
アランは驚き、ラムールを見返しました。当然、ラムールもヒスイを疑うに決まっていると思っていたのです。
「だって……いったいほかに、だれが」
「窓から、盗賊や泥棒なんかが指輪をとったかもしれない。こんなちいさなところから、人間は入れないだろうって? やつらの手口を甘くみてはいけないよ。曲がりなりにも、ここは宝石店だ。いつ狙われたっておかしくはない。
そもそも、だ。お客さまへの大切な品を、机に置いたままにしたアランにも問題があるだろう。大切なものは、だれの目にも届かぬところに、きちんとしまっておくべきだった」
「それは……」
なにもこたえることができませんでした。ラムールのいうことは最もでした。
盗賊のことだって、だれよりもよくわかっているつもりでした。たとえ指一本しか通らないほどの穴であっても、優秀な――つまり、その道に長けた盗賊ならば、そこから盗みを働くことなど朝飯前であることを、アランは知っていたのです。だからこそ、いつもは宝石も銀も必ずしまうようにしていました。このところ、寝不足が続いたせいで気が緩んでいたのです。アランはうつむき、唇をかみました。
ラムールは、優しい声音で話を続けました。
「前に、ヒスイちゃんが棚をめちゃくちゃにしたことがあっただろう。あのとき、きみに触るなといわれてから、あの子は一度だって棚に近づいていないよ。あの子はちゃんと、きみとの約束を守っている。それでもまだ、あの子を疑うっていうのかい?」
アランは、黙っていました。ヒスイのことより、指輪の行方の方が気がかりでした。ラムールのいうとおり、どこのだれかもわからぬ者が指輪をとったとしたら、どうやって取り戻せばいいのでしょう。
アランの頭の中は、指輪がなくなったというあせりと不安でいっぱいでした。額に汗がふき出し、心臓が叫ぶように、激しく鳴っています。
男は明日、指輪を取りにくるのです。指輪をなくしたことを知ったら、男はひどく怒り、悲しむでしょう。自分のせいで、ラムールの店の名に傷をつけることにもなるのです。
ラムールは、アランにいいました。
「とにかく、今すぐにヒスイちゃんを探しにいきなさい。きっと今ごろ、寂しい思いをしている。もしもあの子が危険な目にでもあっていて、二度と会えなくなったりでもしたら。きみは死ぬまで悔やみ続けることになるんだぞ」
「……もう、いいんです。それより、指輪の方が大切だから。明日までに、どうにかして指輪を見つけないと」
「アラン。おまえ、本気でそれをいっているのか?」
「あいつは、ヒスイは、いつもよけいなことばかりして……水桶は倒すし、胡椒はこぼすし、部屋は走りまわるし、騒がしいし……いなくなって、清々しました」
「アラン。今すぐ、そこに座りなさい」
ラムールはアランを椅子に座らせると、いきなり頭に特大のげんこつを落としました。
疲れきった体に、そのげんこつは――気絶してしまいそうなほど、強烈でした。
「いってえ!」
「この、大ばか者が! 本気でそう思っているのなら、おまえは本当に大ばか者だ!」
こんなにも、激しく声を荒げたラムールを見るのははじめてでした。いつも穏やかなラムールに怒られたことなんて、出会ってから一度もなかったのです。
ラムールの怒った顔が、一瞬だけ、悲しげに見えました。
「……水桶を倒したのは、きみの代わりに部屋をきれいにしてあげたかったのかもしれないだろう。胡椒の瓶を倒したのも、いつもご飯を作ってくれるきみに、自分もなにか作ってあげようと思ったのかもしれないだろう。どれもうまくいかなくて、きみの目からはよけいなことに見えてしまったのだろうが……アランは、あの子がどうしてそんなことをしたのかと、一度でも考えたことがあるか?」
ラムールのことばは、アランの胸につきささるようでした。
いつも、自分だけがヒスイのことを見ているのだとばかり思っていました。ヒスイの方が、自分のことを見ていたなんて、ましてや自分のためになにかをしようとしていたなんて、これっぽっちも考えたことなどなかったのです。
ラムールは厳しく、アランにいいました。
「今すぐに、ヒスイちゃんを探しにいきなさい。あの子のことだけを考えなさい。あの子になにかがあってからでは遅いんだ。たったひとりの妹だろう。家族だろう。家族よりも大切なものが、ほかにあるわけがない」
ラムールに歯向かうように、アランは顔をあげました。家族なんかじゃない、とアランは叫ぼうとしました。自分とヒスイは血がつながっているどころか、つい数日前に出会ったばかりで、勝手に懐かれて、どうしてあの子が生まれたのかすら、わからないのだと。
喉まで出かけたそのことばを、アランはのみこみました。
ヒスイの姿に、幼いころの自分の姿が重なったことを思い出しました。
(……おれも、同じだ。自分がどこで、どうして生まれたのかもわからない。本当の両親の顔なんて知らない。ずっとひとりで、それがすごく寂しくて……でもおれは、おれを助けてくれた人たちを、本当の家族だと思えた。それで、幸せだった)
今ヒスイを探さなかったら、自分のその大切な思い出も、一緒になくしてしまうような気がしました。
(……家族じゃないから、なんだっていうんだ。血がつながっていることが、そんなに大切なのか。あいつは……ヒスイは、おれの隣で、笑ってただろ)
アランは、ゆらりと椅子から立ち上がりました。そして、まっすぐにラムールを見つめてこたえました。
「ラムールさん。おれ、ヒスイを探してきます。おれが、探してやらなくちゃいけないんだ。迷惑をかけてごめんなさい。でも、今のヒスイが頼れるのは、きっとおれしかいないんです」
そして、アランは店を飛び出しました。風のような速さで走ってゆくアランの後ろ姿に、ラムールは優しい眼差しを向けました。
ヒスイの名を呼びながら、アランは都の中を走りました。ヒスイの好きなものが並んだ店や、狭い路地裏まで、思い立つところはすべて足を運びました。
真昼の太陽が、焼きつけるようにアランを照らします。体中の水分が、すべて汗となって流れてゆくようでした。目の前がかすみます。それでも、アランは足を止めずにヒスイの名を呼び続けました。
(くそ……あいつ、どこにいったんだ。まさか、だれかに、つかまって)
考えただけで、熱いはずのアランの背筋は凍るように冷たくなりました。
太陽が、西へと傾きました。そのとき、町にすむ野良犬がアランの服の裾をかんで引っ張りました。
「な、なんだ、おまえ。はなせよ」
アランは顔をしかめましたが、野良犬はますますアランの服の裾を引っ張りました。
顔をあげると、塀の上を歩く猫も、そして道の端に潜むねずみも、町にすむ動物たちがみんなアランを呼んでいるように見えました。
「ついてこいって、いってるのか?」
野良犬が、それにこたえるように鳴きました。そして、アランの前を走り出しました。
あとを追いかけると、町の外れにヒスイがいるのが見えました。その姿を見た途端、アランの顔から血の気が引きました。
ヒスイは家の壁をよじ登り、そして屋根の端に立って、そばの木にある鳥の巣に手をのばしているところだったのです。
(あんな高いところで、なにをやってるんだ!)
アランの心臓は今にも張り裂けそうでした。呼吸が乱れて、うまくヒスイの名を呼ぶことができません。
「とりさん、おねがいだよ」
ヒスイは巣の中にいる鳥に声をかけていました。鳥は迷うように、巣の中をいったりきたりしています。
「おねがい。このままだと、ボクのだいすきなひとが、かなしむの」
もう一度、ヒスイが声をかけると、鳥はやがて観念したように、そのくちばしからヒスイの手になにかを落としました。
「ありがとお」
ヒスイは満面の笑みを浮かべて、お礼をいいました。
そのときでした。ヒスイが、足をすべらせたのです。悲鳴をあげながら、ヒスイは屋根からまっさかさまに落ちてゆきました。
「ヒスイ!」
アランの足は、勝手に動いていました。ヒスイのことしか見えませんでした。道の端に積まれていた木箱や麻袋を蹴って跳躍し、落ちてゆくヒスイの体を抱きしめました。
うまく着地するつもりでした。しかしそのとき、ヒスイがいきなりアランの首にしがみつきました。
「わっ、ばか……」
そのせいで体勢をくずし、アランは背中から地面に落ちました。激しい衝撃と痛みが、背中を通じて体中に伝わってゆきます。息ができません。それでもヒスイを離してしまわないよう、アランは腕に力をこめました。
「いってえ……」
ラムールにげんこつは落とされるし、背中を地面に打ちつけるはめになるし、散々な一日です。おまけに寝不足だし、お腹は空いているし、とにかくアランの体はもうぼろぼろでした。今すぐにだって、気を失ってしまいそうでした。
腕の中のヒスイが、驚いたようにアランを見ています。
「アラン! だいじょうぶ? けが、してない?」
「……それは、こっちの台詞だ」
アランは体を起こして、ヒスイを見つめ返しました。ヒスイの体はどこも傷ついてはいなくて、その桃色の頬はいつもと同じように、ふくふくとしていました。アランはほっと息をはいたあと、眉をつりあげました。
「どうして、あんなことをしたんだ。あぶねえだろ!」
「アラン、みて!」
声を荒げたアランの目の前に、ヒスイがぱっと手の中の物を差し出しました。
「これは……」
ヒスイが持っていたのは、あのルビーの指輪でした。美しい輝きを失うことなく、ヒスイの手の中におさまっていました。
「あのね、きれいだったから、とりさんがまどからもっていっちゃったんだって。ボク、つくえのところにはいかないようにしてたから、しらなかったの」
「……そう、だったのか」
ヒスイは、嘘などついていませんでした。ラムールのいったとおり、アランとの約束をちゃんと守っていたのです。
「でも、アランのだいじなものなんだっていったら、かえしてくれたんだ」
はい、とヒスイはアランの手に指輪をのせました。冷たいはずの銀の指輪は、ヒスイの体温でほんのりと温かくなっていました。
「……ずっと、ひとりで指輪を探していたのか?」
「んーん。みんながね、いっしょにてつだってくれたよ」
野良犬や猫たちが、ほっとしたような表情でヒスイとアランを見ていました。やがて動物たちは、それぞれの棲家へと戻ってゆきました。ヒスイは、動物たちの姿が見えなくなるまで手を振っていました。
「アランのだいじなもの、みつかってよかったね」
「あ、ああ……」
アランがこたえると、ヒスイはもぞもぞと、アランの腕の中から離れて立ち上がりました。そして、アランにも手を振りました。
「アラン、ボクのこと、たすけてくれてありがとう。ばいばい」
「ばいばいって……どこにいくんだよ」
「アラン、それ、かえしたらでていけ、っていった。だから、ボクはどこかにいかなくちゃ」
アランは驚いて、ヒスイを見つめ返しました。ぼろぼろの服を着た、ちいさなヒスイの姿に胸が痛くなりました。
行くあてなんて、あるはずがないのです。あるはずがないのに、ヒスイはアランのいったことを守ろうとして、右も左もわからない大地を、ひとりでさまようつもりなのです。
アランは、そわそわとしながらどこかへ行こうするヒスイの手を強く握りました。
「疑ってごめん。怒ってごめん。おれが悪かった。だから……どこにも、いくな」
ヒスイは振り返り、びっくりしたような、すがるような表情でアランを見上げました。
「ほんと……? ボク、どこにもいかなくていい……?」
「いい。ここにいろ。ここにいてくれ」
ヒスイは、瞳をおおきく見開きました。その瞳から、大粒の涙がこぼれました。
やがて糸が切れたかのように、ヒスイは大声で泣きはじめました。そして、必死にアランにしがみつきました。アランの胸の中で、いつまでも泣きました。
アランはただ、ヒスイの体を抱きしめました。涙で服がぬれるのも構わずに、ヒスイのことを強く抱きしめたのでした。
夕焼けが、ふたりのことをオレンジ色に染めていました。
♪ ♫ ♪ ♫
星空の中を、ふたりは手をつないで歩きました。今日は新月です。月の姿が見えないかわりに、幾千もの星が、闇の中で輝いていました。
「おほしさま、きれい」
「そうだな」
久しぶりに、夜空を見上げました。ひとりではなく、だれかと星を見るのも悪くないなとアランは思いました。
すると、夜空に白い線がすっと弧を描きました。
「わあ、いまのなに?」
「流れ星だよ。そういえば、星が流れているあいだに願いごとをすると、その願いがかなうって、前に教えてもらった」
アランがヒスイにそういったとき、もうひとつ流れ星が弧を描きました。
「ボクは、アランのおよめさんになりたい!」
流れ星にむかって、ヒスイはいきなり、おおきな声で叫びました。まさに、星にまで届くほどの声でした。
アランは、複雑な表情を浮かべました。喜んであげた方がいいのか、それとも真剣に受け止めた方がいいのか、よくわかりません。
「なんだそれ。おまえ、お姫さまになりたいんじゃなかったのかよ」
「どうくつにいたとき、とりさんにおしえてもらったの。おひめさまは、いっぱいきれいなものにかこまれていて、それでね、おうじさまがむかえにきてくれるんだって」
ヒスイはアランと手をつなぎながら、ぽつりぽつりと話しました。
「ひとりぼっちでも、おひめさまはいつか、おうじさまといっしょになれるんだ」
「……だから、お姫さまになりたかったのか?」
ヒスイはうなずきました。
ずっと、ヒスイは寂しかったのだろうとアランは思いました。あの洞窟で、だれかがむかえにきてくれるのをまっていたのでしょう。
たったひとりで、かなしい夜をすごしていたのでしょう。
ヒスイは顔をあげて、にっとアランに笑いかけました。
「そしたら、アランがきてくれた。だから、アランがおうじさま。おひめさまは、おうじさまとけっこんするの。だから、およめさん!」
アランは、思わずつられて笑ってしまいました。
「おれ、王子なんて柄じゃないよ。貧乏だし」
肩をすくめながらアランがいうと、ヒスイはむっと頬を膨らませました。
「じゃあ、アランのねがいごとはなに? おかねもち?」
「おれは……」
アランは、夜空を見上げました。
もしも、願いがかなうのならば。自分は、星になにを祈るでしょう。地位も名誉も、豊かな暮らしも、アランはなにもいりませんでした。
「願いごとは……とくに、ないよ」
「アラン……?」
ヒスイは、そっとアランの手を握りなおしました。ヒスイがなにかいうまえに、アランはヒスイにたずねました。
「なあ、ヒスイは動物たちのことばがわかるのか?」
「え? アランも、わかるでしょ?」
ヒスイは首をかしげました。
「……ふつうは、わからないよ」
妖精がもつ、特別な力なのでしょうか。ますます、ヒスイの謎が深まりました。
(……ほかの妖精たちにきいたら、ヒスイのことがなにかわかるかもしれない。ひょっとしたら、父親の居場所も……)
その帰り道、アランはあることを決めました。
次の日、約束どおり男が指輪を取りにやってきました。
アランがつくった指輪を見て、男は大層喜びました。何度もお礼をいって、多めにお金を払ってくれました。そして、男は指輪を渡す人の元へと帰ってゆきました。
「やれやれ、一時はどうなることかと思ったが。すべてうまくいってよかったよ」
ラムールは満足そうに、アランを見上げました。アランの隣には、ヒスイがアランの腰にしがみつくようにして立っています。
「いろいろと心配をかけて、すみませんでした」
アランははっきりとした声で、ラムールに謝りました。
「終わりよければすべてよし、ってやつさ。ああそうだ、これをヒスイちゃんにあげようと思っていたんだよ。指輪を見つけたのは、彼女のお手柄だからね」
ラムールは、ちいさな女の子用の服をヒスイの前に広げてみせました。
「ずっと昔に、わたしの娘のために買ったものなんだ。きれいだろう? けれど、もう必要なくなってしまったからね。ヒスイちゃんにぴったりだと思うんだ」
ヒスイは目を輝かせて、さっそくその服に腕を通しました。透きとおった、ガラスでできた靴までありました。服も靴も、皺や傷ひとつなくて、新品同様にきれいなものでした。
「うわあ、うわあ! ありがとお! みて!」
ヒスイは舞うように、その場をくるくると回りました。思わず、アランもラムールも目を見張りました。まるで本当に、どこかの国のかわいらしいお姫さまのようだったのです。
「みんなに、みせてくる!」
ヒスイは、町の動物たちのところへと服を見せびらかしにいきました。
部屋には、ラムールとアランのふたりきりになりました。
「あのう、いいんでしょうか? あんなにも高そうな服を……ラムールさんにとって、とても大切なものなんじゃ」
「気にしないでくれよ。だれにも着られずにしまわれているより、何度も着られて汚れていく方が、きっと服も嬉しいだろうからね……」
ラムールはつぶやくようにそういって、優しい瞳で窓の外を見つめました。窓から、ヒスイが町にすむ野良犬たちの前で、くるくる舞っているのが見えました。
ラムールはアランの方へと振り返りました。
「それで、わたしに話とはなにかな?」
「はい。あの、じつは」
アランは、口ごもりながらラムールにいいました。ラムールは急かすことなく、優しい瞳のままアランを見ています。
「おれ、旅に出ようと思うんです。ヒスイと一緒に」
「旅だって? いったい、どうしてまた急に?」
「おれとヒスイは、本当の家族じゃありません。ヒスイは、本当の妹じゃないんです。洞窟で眠っていたヒスイを、おれがたまたま、見つけただけなんです。うまく話せなくて、ずっと黙っていました。ごめんなさい」
ラムールは、信じられないというように目を丸くしました。
「そりゃ、本当なのかい? だって、どこからどう見たってそっくりじゃないか」
「最初に会ったとき、ヒスイはおれのことを父親だと勘違いしました。だからきっと、どこかにおれに似た本当の父親がいるんです。その、本当の父親を探しにいきたいんです」
ラムールはまだ、目を丸くしたままでしたが、やがてすこし困ったような顔をして、アランにたずねました。
「……ヒスイちゃんが、アランに懐いていても、か? アランは、それでいいのか?」
アランはうなずきました。
「ヒスイの面倒をみるのが、いやになったわけじゃありません。あー……まあ、あまりにわがまますぎるのは、勘弁してほしいですけど。血のつながりとか、生まれた境遇とか、だれかと家族になるのにそんなものは関係ないって、おれは思います。でも、もしもヒスイに本当の父親がいて、その父親もヒスイに会いたがっているとしたら。ヒスイはやっぱり、そのひとの元へと帰るべきだ。それが一番、ヒスイが幸せになれることなんだと、思うんです」
真剣な表情でアランはこたえました。
ラムールは、静かにアランのことばをきいていました。それ以上、なにもたずねることはありませんでした。
そして、いつものように穏やかな声で、アランにいいました。
「わかった。きみに休暇をあげることにしよう。それも、有給休暇だ。その分の給料を前払いしてやるから、持っていきなさい」
ラムールは、アランに大金の入った袋を渡しました。
「そんな……こんなに、もらえません」
「遠慮をするな。思えば、わたしと出会ってからずっと、アランは働きづめだった。きみはまだ若い。きっかけはどうであれ、世界をめぐっていろいろなものを見たり、触れたりすることは、必ずいい経験になるだろう。そうだ、ついでといってはなんだが、旅のあいだにいい宝石を見つけたら、ぜひ持って帰ってきてくれ」
ちゃっかり、ラムールはそんなことをいいました。アランはすこし笑って、ありがたくその袋をいただくことにしました。
ラムールは、ふと寂しげな表情でアランにいいました。
「前から、気になっていたんだ。きみはときどき、ひどく思いつめた顔をする。このあいだ、机で眠っていたときもそうだった。なにかを抱えていて、それをだれにも話さない。いや、それが悪いことだというわけじゃないんだ。ひとはときに、だれにも頼りたくないことだってあるだろうから。でも、わたしではきっとアランの力になれないのだろうと思うと、すこし寂しくてね……」
アランは驚き、首を振りました。
「そんなことをいわないでください。おれは、ラムールさんに何度助けてもらったか……」
「そうかな? そういってもらえるなら、嬉しいが。そんなきみが、ヒスイちゃんと出会ってからすこし変わったようにみえた。楽しそう……というよりも、大変そうな姿ばかりだったかな? いいや、それでもきみは、やっぱり楽しそうだったよ。
あの子はもしかしたら、きみを明るく照らす星になるのかもしれない。だからこそ、ずっと一緒に暮らせばいいんじゃないかなんて、思ってしまったが。アランの決めたことなら、わたしは止めはしないよ。どうかきみたちに、幸せな未来があるように」
ラムールは「気をつけてな」とアランの肩に手をのせ、そして店の方へと戻ってゆきました。
その背中を見つめながら、アランは頭をさげました。
しばらくして、満足そうな顔をしたヒスイが戻ってきました。ヒスイの足元には犬や猫が何匹もすり寄っています。
ヒスイは、一枚の羊皮紙をアランに渡しました。
「アラン。これ、あげる」
それは指輪がなくなったあの夜に、ヒスイが握りしめていたものでした。
絵の中に、王冠がひとつ描かれていました。それを見て、ようやくアランはヒスイがなにを描いていたのかわかりました。
「もしかして、おれの顔を描いたのか?」
「うん! あのね、おうじさまになったアランだよう。それでね、こっちがね、おひめさまのボク」
ヒスイはいっしょうけんめい、アランに絵の説明をしました。
(あの日の夜、これを描いていたから留守番するっていったのか。絵を完成させて、おれに見せるために)
お世辞にも、うまいとはいえない似顔絵です。それでも、アランにとってはなにものにも代えられない、宝物となりました。
「ありがとう」
アランがお礼をいうと、ヒスイはとても嬉しそうに笑いました。
もらった似顔絵を、机の上に飾りました。たった一枚の絵だけで、質素だった机がにぎやかになったような感じがしました。
「なあ。おまえの父親のことだけど……」
「あー!」
アランがいいかけると、いきなりヒスイが声をあげました。
「たいへん、たいへん! ボクのだいじなもの、どうくつにわすれてきちゃったよう!」
ヒスイは「たいへんたいへん」と大さわぎしながら、アランの周りを走りました。
ヒスイをなだめながら、やっぱり静かな部屋が恋しいと、アランは思ったのでした。
♪ ♫ ♪ ♫
アランとヒスイは、もう一度あの洞窟へと行きました。呪文をとなえて、洞窟の入り口を開きます。
「あった! ボクのわすれもの」
ヒスイは、アランに落ちていた木の枝を見せました。いいえ、よく見るとその木の枝には、指で押さえられるほどの穴がいくつか空いていました。
「これ、ボクのよこぶえ!」
「それが、ヒスイの妖精の楽器なのか」
妖精は、生まれたときから楽器をひとつ持っています。その楽器でさまざまな曲を奏で、ときにはその楽器で魔法を使うのです。旅をしていたころ、アランも何度もその光景を目にしました。妖精にとって、楽器は命と同じぐらい大切なものでした。
そんなにも大切なものを今まで忘れていたのか、とアランはすこしあきれました。
ふと、アランは妖精の木の根本に、一枚の紙切れが落ちているのを見つけました。紙きれを拾い上げてみます。
上等なその紙には、青色のインクで五線譜と音符がいくつも書かれていました。アランは音楽については詳しくはありませんでしたが、それが楽譜であることはわかりました。
譜面の一番上に、文字が書かれています。
「〈星に願いを〉……? この曲の名前か?」
アランがつぶやくと、ヒスイが隣から譜面をのぞきこみました。
「ボクね、それ、ここでずっとれんしゅうしてたの」
「この曲を? この楽譜も、ヒスイの忘れ物か?」
「んーん。ずうっとまえに、そらからおちてきたよ」
ヒスイは、天井の岩の隙間を指さしました。この楽譜はどこからか、風にのって飛ばされてきて、偶然この洞窟の中に舞い降りたのでしょうか。
アランは、この曲をきいてみたいと思いました。
「これ、演奏してくれよ。練習してたんだろ?」
「ほんと? きいてくれるの?」
ヒスイははずむような声でいったあと、すこしもじもじとしながら木の前に立って、ぴょこんとアランにお辞儀をしました。アランも、ヒスイの前に座りました。
そして、ヒスイは握りしめていた横笛をそっと口元にあてました。
透きとおるような音色が、洞窟に響きました。紡がれてゆくその音色に、アランは思わず息をのみました。いつも元気なヒスイからは想像もつかないほど、その曲は穏やかで、優しい旋律だったのです。
まさに曲の名にぴったりな、星くずのきらめきを思わせる音色だとアランは思いました。目の前に、幾千もの星が瞬いているような気さえしました。
ここちよい音色に包まれながら、アランはヒスイの演奏を楽しんでいました。
ヒスイが、口元から笛を離しました。演奏が終わったのです。
アランは、ヒスイに拍手をしました。心から、すばらしい演奏だったと思いました。
「きいてくれて、ありがとお」
ヒスイが、アランにお礼をいいました。
そのときでした。譜面の記号が、光りながら浮かびあがりはじめたのです。
「わあ、なになに?」
ヒスイはびっくりして、譜面を手に取ろうとしました。アランがそれを止め、ヒスイを自分の方へと引き寄せました。
記号が、さらに輝きました。その光はなにかの形をかたどり、やがて銀色の毛並みを持つ、美しい狼となったのです。それも、見上げるほどにおおきな狼でした。
いきなり現れた狼の姿に、ヒスイは目を丸くしました。アランはいぶかしげな目つきで、狼を見返しました。
狼は、じっとアランとヒスイを見下ろしています。アランは、ヒスイを自分の背へとかばいました。
「おまえ……何者だ? ただの狼じゃないだろ」
狼は、返事をするように一声鳴きました。どうやら、ふたりを襲うつもりはないようです。
「アラン、まって。おおかみさん、なにかおはなししたいみたいだよう」
ヒスイはそろりと、狼のそばに寄りました。狼は目の前に立つヒスイに向かって、鳴いたりうなったりしています。
ヒスイは長いこと、狼の話をきいていました。
ヒスイはうなずいたり、首をかしげていましたが、やがてかわいらしい眉を寄せながら、アランの方を振り返りました。
「むずかしくて、わからないよう」
アランはため息をつきました。心なしか、狼もため息をついたように見えました。
アランはすこし考え、ヒスイにいいました。
「狼がいったことを、そのまま繰り返してみてくれよ」
ヒスイはうなずき、もう一度狼の声をききました。
そして、たったひとことつぶやきました。
「このままだと、せかいにわざわいがふりかかる」
アランは耳を疑いました。
(災いだって? この狼が、本当にそういったのか?)
狼の青い瞳はただまっすぐに、アランとヒスイを見つめていました。
アランは、不思議な楽譜を拾いあげました。浮かびあがった記号は消え、今はなにも書かれていない紙きれとなっていました。
「それ、もっていてほしいって。だいじなものだからって」
ヒスイがアランにいいました。アランはうなずき、楽譜を自分の懐にしまいました。
この狼が何者で、なにを知っているのか、アランにはわかりません。いい狼なのか、悪い狼なのかさえも。
ただ、このままではなにか大変なことが起こるのだろうと、アランの勘がそう告げていました。
狼が、姿勢を低くしました。青色の毛並みが、太陽の光に照らされて濃く輝きます。
「せなかにのれ、っていってる」
乗るか乗らないか、アランは迷いました。狼は、自分たちをどこに連れてゆく気なのでしょう。災いなんてものに、ヒスイを巻きこむわけにはいかないのです。それに、自分たちの大事な旅の目的は、ヒスイの父親を探すことなのです。
(でも……この狼は、ヒスイが曲を奏でたら現れた。狼とヒスイは、なにか関係があるのか?)
「アラン。おおかみさんといっしょにいこう」
気がついたときには、もうヒスイは狼の背中に乗っていました。
「おおかみさん、こまってる。ボクたちで、たすけてあげなくちゃ」
ヒスイは、まっすぐにアランを見ていました。
なにをいったところで、ヒスイがもう狼から降りないのは目に見えていました。アランはしかたなくうなずき、ついに自分も背に乗ることを決めました。
ふたりが背中に狼の背中に乗ると、狼は一声、大きく吠えました。
そして、風のような速さで勢いよく駆け出しました。
目的地もわからぬまま、ふたりの旅は始まったのです。
――ちょうどそのころ、アランの家に一通の手紙が届きました。
それはじつは、かつてともに旅をした仲間のひとりからの手紙だったのですが――それにアランが気づくことはありませんでした。
〈星に願いを〉
作曲:Leigh Harline 作詞:Ned Washington
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