第2話
旅する燕、一輪の花と出逢う
うすよごれた荷車が、からからと音を立てながら街道を進んでおりました。それを引いているのは、灰色の毛並みをもつ年寄りのろば。そしてそのろばの手綱を引くのは、これまた灰色の髭をたくわえた老人です。
「今日も今日とて、おだやかな一日じゃのう。若かりしころはいろいろと無茶をしたこともあったが、この歳になってみると、こういう日が一番ありがたいということがよくわかるわい」
老人のことばに返事をするように、ろばが鳴きました。
のんのん、のろのろと荷車は進んでゆきました。人が歩く速さとほとんどかわらないのです。実際、何人かの人たちが荷車を追い越してゆくのを、老人はなごやかな目で追いました。
荷台には、たくさんの藁が積まれていました――いいえ、よく見るとその藁の中に、ひとりの青年が埋もれるようにしてあぐらをかいていました。
見上げた先にあるのは、雲ひとつない青空。すばらしくいい天気です。
青年は一度おおきく伸びをすると、藁から身を乗り出すようにして老人に声をかけました。
「長いこと、乗せてもらっちまって悪いな。おれみたいな荷物が増えて、あんたの相棒は文句をいってないかい?」
青年のことばに、老人はけらけらと笑いました。ろばはつかれた様子もなく、強い力で荷車を引いています。
「わしらが何十年、ともに荷物を運んでいると思っとるんじゃ。肥料に塩に、生糸じゃろ。ときには鉄だって運んだこともある。おまえさんのような、やせた人参のような小僧のひとりが増えたぐらい、なんとでもないわい」
「へえ、そりゃあ頼もしい。あれ、でもその割には、泥地に足をとられて動けなくなっていたような……」
青年が横目でちらりと老人を見ると、老人は肩をすくめました。
「ほほ。その道に長けた者だって、ときには失敗をすることだってあるからの」
たしかにそうだな、と青年も笑いました。
「それはあれだ。麒麟のつまづき、ってやつだな」
「きりん? あの、首の長い動物のことか?」
「ちがうちがう。名前は同じだけど、おれがいっているのは伝説の中に出てくる、四本足の聖なる生き物のことさ。そんなすごそうなやつだって、ときにはつまづいて転ぶこともあるだろうっていうもののたとえ」
老人はすこしばかり、眉にかくれた目を見開きました。
「はじめてきくことばじゃ。おまえさんは、どこか遠い地からやってきたのじゃな。どうりで、この辺りでは見かけない風貌だと思ったわい」
青年は、どこか異国を思わせるような服を着ていました。さらりとした黒髪を短く切りそろえ、切れ長のふたつの目は、黒曜石のようにくっきりとしています。その目には、見た人を一瞬だけどきりとさせるような、人を寄せつけないようなするどさがありました。黙っていれば、青年の姿はまるで氷山の一角のようにつめたくとがって見えるのでした。
けれど口を開けばそんなことはなく、青年はいたって優しい心の持ち主でした。老人との出会いだって、泥地に埋まって動けなくなった荷車を助けたことが始まりだったのです。助けたお礼として、荷台に乗せてもらうことになったのでした。
「まあね。こんな北の大地に降り立ったのは初めてなんだ。歩くのはきらいじゃないけれど、こうして車輪の揺れを感じながら旅をするのも、いいもんだな」
青年はきげんよくつぶやき、となりに置いた箱の表面をそっとなでました。竹を削ってつくられた、細長い形をした箱です。青年の持ち物はたったそれだけでした。
荷車はさらに街道を進んでゆき、やがてふたつの分かれ道の前で止まりました。
「わしらは右へ行くが、おまえさんはどうする? 左には、ちいさな村があるよ。まだできたばかりの若い村だが、住む人々は穏やかだし、居心地はとてもいい」
「それなら、ここで降りるよ。おれは、左に行くことにする。ここまで乗せてくれてありがとうな」
青年は竹箱を背負って、荷車を降りました。服についた藁を、軽く手ではらいます。
「気をつけてな。気が向いたら、わしらの村にも来ておくれ」
青年は笑って、親指をつき立てました。
「わかったよ。とびきりの演奏をしてやるから、楽しみにしててくれよな」
「……はて、演奏とな?」
老人ききかえしたころには、すでに青年は背を向け、左の道を歩き出していました。
右の道をゆきながら、老人は思い出したようにろばにいいました。
「しまった。あの子の名前をきくのをわすれたわい。近ごろ、どうもわすれっぽくてなあ」
「まあまあ。またきっと会えるよ」。そんなふうに、ろばは一声鳴きました。
♪ ♫ ♪ ♫
お昼を過ぎたころ、青年は村へとたどりつきました。村の前に立てられた看板を読み上げます。
「サテーンカーリ? 一度きいたら、絶対わすれないような名前の村だな」
入り口に立つもみの木は、赤い木の実や丸い飾りや、銀色に塗られた松の実でかわいらしく飾られています。赤いレンガが敷きつめられた道と、白いレンガで建てられた家々が目に映えます。地面の端には、まだすこし積もった雪が溶けずに残っていました。
老人のいったとおり、たしかにとてもちいさな村ではありました。けれど道を行く人々は穏やかな表情をしているし、子どもたちは元気よく駆け回っています。そんな姿を見ているだけで、この村が幸せにあふれていることが青年にはすぐにわかりました。
まだ中にも入っていないというのに、青年はすぐにこの村を気に入りました。
「サテーンカーリは、虹という意味があるのです。雪が太陽の光に照らされると、村全体が虹色にかがやくから……」
ふいに、声をかけられました。青年のとなりには、淡い金色の髪を丁寧にまとめた、美しい老婦人が立っていました。婦人は杖をついていましたが、背筋はぴんと伸びて、しっかりとした足どりです。瞳は優しげに、青年の顔を見つめていました。
「そりゃあ、いい名前だ。冬になったら、またここに来ようかな」
「ふふ、いきなり話しかけてしまってごめんなさい。はじめまして。どこか、遠くからいらした方でしょうか?」
「ええ、そうですよ。今、ついたところです。とてもいい村だときいたから」
青年がこたえると、婦人は微笑みました。
「まあ、うれしいわ。ようこそ、サテーンカーリの村へ。いい思い出をたくさん作っていかれてくださいね。村を案内してさしあげたいのだけれど、わたしでは難しくて……」
「アンネおばさま!」
遠くから婦人に駆け寄る、娘の姿が見えました。婦人と同じ、けれどすこし濃い金色の、ふわりとした髪をゆらしながら。
「アンネおばさまったら。ひとりで村の外に行くのはあぶないわ。あたしがいっしょにいくから、声をかけてちょうだい」
「ごめんなさい、そうではないの。旅の方の声がきこえたから、あいさつをしたのよ。マリア、この方に村を案内してさしあげて」
娘はちらりと青年の顔を見上げると、スカートの裾をつまんで優雅にお辞儀をしました。
「はじめまして、旅人さん。あたしはマリアといいます。アンネおばさまといっしょに、この村に住んでいるの。どうぞよろしくね」
そして、ひまわりのような笑顔を青年に向けました。
その瞬間――青年の心に、稲妻が落ちたような衝撃が走りました。突然、まるで病にでもかかったかのように心臓の鼓動が速まります。
耳まで真っ赤になっているのが、自分でもわかりました。体温が急に二度ぐらいあがってしまったような気さえします。
「あなたのお名前は?」
マリアにたずねられ、青年ははっとして、それからあわてたように、ひとつ咳払いをしました。
「は、は、はじめまして! おれは、フェイイェンっていいます。ど、どうぞよろしく」
「フェイイェン? はじめてきくような名前だわ。とてもすてきな響きね」
「ずっと東の方から来たんだ。飛んでいる燕を表す意味の名前さ」
「つばめ?」
マリアがききかえすと、フェイイェンは首をひねりました。
「知らないか? 鳥の名前なんだけれど……そうか、あいつらは暖かいところが好きだから、この辺りにはいないんだろうな。燕は、体はちいさいけれど翼は立派なもんだぜ。その翼で海を越えて、どこまでも飛んでゆけるんだ」
「まあ! 海を越えるなんて、まさに旅をする鳥じゃない。あなたにぴったり」
マリアが、フェイイェンににっこりと笑いかけました。
「そ、そ、そうかな。ありがとう。おれは、マ、マリアの名前、すっごくかわいいと思う……いやあの、かわいいのは名前だけじゃなくて……」
フェイイェンは口ごもりながらいいましたが、それはマリアの「いけない!」とさけんだ声にかき消されてしまいました。
「せっかくフェイイェンが来てくれたのに、あたしったらこんなところで立ち話をして。村を案内するわ。でもその前に、あたしたちの家で暖かい飲み物でもどう? ねえ、フェイイェンを家にお招きしてもいいわよね? アンネおばさま」
マリアは甘えるように、アンネの腕に自分の腕を絡めました。自分と背丈がほとんど変わらぬマリアの頭を、アンネが優しげな手つきでなでました。
「もちろんですよ。さあ、フェイイェンさんもいっしょに、わたしたちの家に参りましょう」
♪ ♫ ♪ ♫
マリアとアンネの家で、フェイイェンは温かなミルクをいただきました。ふたりの家は村の外れにあって、白いレンガと白樺の柱でできた、かわいらしい見た目をしていました。
「きれいな家だな」
「ありがとう。前は、もっと古い家だったのよ。その家もよかったけれど、冬になると隙間風とか、寒さがひどくて……。あたしは平気だけれど、アンネおばさまには、つらい思いをさせたくなくて。だからすこし前に、建て直したの。村のみんなが、手伝ってくれたわ」
ふたりで村を歩きながら、マリアはいいました。マリアとアンネの家だけでなく、ほかの家や店の建物も、どれも間新しく見えました。
「そういえば、まだできたばかりの村だってきいたな。どうしてこんな、北の外れに村をつくったんだ?」
「……いろいろ、あったの。五年前までは、もっとずっとちいさな、本当にちいさな村だったわ。ここまで村をよみがえらせるまで、気が遠くなるほど大変だったの……」
マリアはすこしうつむきながら、ちいさな声でこたえました。マリアの「よみがえらせる」ということばに、フェイイェンはあせりました。触れてはいけないことをきいてしまったんじゃないかと思ったのです。
「でも、でもさ。たった五年で、こんな立派な村になったんだろ? それって、めちゃくちゃすごいことじゃないか。ふつうだったら、もっと何年も、何十年だってかかるに決まってる。村に住む人たち全員で力を合わせなきゃ、絶対にできないことさ。みんなに思いやりの心がある証拠だぜ。うん、絶対にそうだ」
やたら早口になってしまったフェイイェンを、マリアは目をぱちくりとさせながら見上げました。
「それにさ。おれは村の入り口を見ただけで、ああ、ここは絶対にいいところだって思ったんだ。村の景色とか、住んでる人の表情を見て……」
マリアはフェイイェンの顔を見上げたまま、微笑みました。
「ありがとう。本当にうれしいわ」
マリアの海のように青い瞳がかがやいています。その瞳にどきどきしてしまって、フェイイェンは目を泳がせながら、頭をかきました。
「マリアさまー!」
道の反対側から、ちいさな男の子が走ってきました。それに続いて、ほかの子どもたちもぞろぞろとついてきました。
「マリアさま、いっしょにあそぼう!」
「おいかけっこしよう!」
「えーっ。今日は、かくれんぼがいいよう」
あっというまに、マリアは子どもたちの輪に囲まれました。子どもの力は意外と強いもので、フェイイェンはいとも簡単に押しのけられてしまいました。まるで蚊帳の外へと追い出された気分です。
マリアはしゃがんで、ひとりずつ頭をなでたり、頬ずりしたりしました。
「こんにちは。あなたたちのお誘いはとてもうれしいわ。でも、今はお客さまに村を案内しているから、また今度にしましょうね」
「そんなの、あとででいいじゃんか!」
子どもたちは不満げに頬をふくらませ、フェイイェンの足元で抗議の声をあげました。
「あのさ、おれは構わないよ。ひとりで見て回るから。みんな、大好きなマリアといっしょにいたいんだよな?」
本音をいうと、マリアとふたりで歩きたい気持ちはフェイイェンにも大いにありましたが。マリアが村の人気者なのは、すこし歩いただけで手に取るようにわかったのです。なにしろ、道行く人すべてが、マリアに声をかけるのですから。人気者をひとりじめするのはよくないよな、とフェイイェンは思ったのでした。
子どもたちは不満げな表情のまま、フェイイェンを見上げました。
その途端、子どもたちの表情が固まりました。中には、今にも泣き出しそうに顔をゆがめてしまっている子もいます。
しん、と気まずい空気がただよいました。
「あー……ええと、その。よう、がきども! 元気そうだな!」
フェイイェンが明るい声であいさつをすると、子どもたちはさっとフェイイェンの足元からはなれました。
「うわあん! こわい人がいる!」
子どもたちは悲鳴をあげながら、散り散りになってどこかへと逃げてゆきました。
「あ、こら! 待ちなさい! 人を見ていきなり悲鳴をあげるなんて失礼だわ!」
マリアはおこってさけびましたが、子どもたちは聞く耳も持ちません。
フェイイェンはばつが悪そうに、苦笑いをうかべました。
「気にしないでくれよ。よくあることなんだ」
「どうしてよ?」
マリアはむっとした顔で、フェイイェンにたずねました。
「おれの目さ、こわいだろ。この目のせいで、はじめて会う人にはよくつめたい人間だと思われるんだ。だから村の入り口で、アンネさんが優しくおれに話しかけてくれたの、すこしおどろいたんだよ」
「……アンネおばさまは、目が不自由なの。でも、たとえあなたの姿が見えていたって、優しく話しかけたに決まっているわ。アンネおばさまは、見た目だけで人を判断したりしないの。あたしもよ」
マリアは、いきなり体を寄せてフェイイェンの顔をのぞきこみました。フェイイェンの頬が、一気に赤く染まります。すっかりどぎまぎしてしまって、フェイイェンは子どもに逃げられたことなど、この際どうでもよくなっていました。
「あなたの目は、こわくなんかない。あたしにもおばさまにも、子どもたちにだって、優しく話しかけてくれたじゃない。そんなあなたが、つめたい人なわけがないわ」
「……!」
マリアのまっすぐなことばが、フェイイェンの心を打ち抜きました。鼓動が、これでもかというぐらいに速まります。
「マ、マリア、近い! わかったから! わかったから、そんなに近くで見つめないでくれ!」
このままでは、心臓が口から飛び出してしまいそうです。フェイイェンは建物の壁にぶつかる勢いで、マリアからはなれました。
マリアは不思議そうな顔をしながら、フェイイェンを見つめかえしました。
♪ ♫ ♪ ♫
それから、ふたりは並んで村を歩きました。マリアは自分が好きなお菓子の店や、北の大地でも咲く花を売る店や、人々の憩いの場である広場などをフェイイェンに紹介しました。広場に置かれた聖火台には、白くかがやく炎が燃えていました。この白い炎は、まだマリアが十二歳だったころに灯したものでした。それから炎は消えることなく、今はこの村の象徴となっているのです。
「ありがとうな。案内してくれて」
広場の長椅子に座って、フェイイェンはマリアにいいました。マリアもそのとなりに座ります。
「どういたしまして。ねえ、あたしったら村を案内するのに夢中で、あなたのことをまだ全然きいていなかったわ。フェイイェンって、歳はいくつ? 生まれはどこ?」
「歳は十七。ずっと東にある大陸の、山奥で暮らしてたんだ。寒いし、空気は薄いし、一日中霧がかっているし、周りには岩しかないし、まちがいなく人が住むところじゃねえな。ま、霧が晴れたときの景色は、それなりにきれいだけれど」
フェイイェンは、どこか懐かしそうに空の彼方を見つめました。
「ふふ。寒いのと、雪や霧で悩まされるのはここと同じね。それにあたしも、十七なの。この村にはあたしと同い年の子がいないから、お友だちになれてうれしいわ」
たしかに村で見かけるのはみんな大人か、ちいさな子どもたちばかりだったな、とフェイイェンは思いました。
「フェイイェンは旅をしているのでしょう? それはどうして?」
「おれは、ただのしがない楽器弾きなんだ。風の吹くまま、気の向くままにいろいろな地へ行って、楽器を弾いてる。どうしてだろうな……楽器を弾くのは、もちろん音楽が好きだからなんだけど。旅をしているのは……おれの中のなにかが、そうさせるんだ。同じところに長くとどまるのは、性に合わない。いつも心のどこかで、見知らぬ大地を求めている……名前のせいだったりしてな。燕は、渡り鳥だから」
フェイイェンのことばに、マリアは目を細めました。
「すてきね。心が望むことをするのが一番だと、あたしは思うわ。そんな自由な燕さんも、いつかは東の故郷に帰るときがくるのかしら?」
「そうだなあ……わからないな。帰りたいと思いたくて、旅をするのかもしれない。おかしいよな」
「いいえ、ちっとも。旅をする理由は、人それぞれだもの。どんな想いを抱いたっていいんだわ。あたしも、前に旅をしていたことがあるのよ」
「そりゃあ、おどろいた。マリアの旅の話もきかせてくれよ」
「うふふ。あのね、いっしょにいた友だちも楽器を弾いていたのよ。それがね、ハーディ・ガーディっていう楽器なの! へんてこな名前でしょう?」
マリアは楽しそうに、旅をしていたころのことをフェイイェンに話しました。旅のあいだに出会ったすべての人たちのことが、大好きで愛おしいと。だからこそ、ときどき皆が恋しくなるのだと。旅の思い出は、いつだってマリアの心の中でかがやいているのでした。
「その友だちもね、今はあなたのように楽器を弾きながら旅をしているのよ。もう、長いこと会えていないけれど……」
会いたいな、とマリアはちいさな声でいいました。肩を沈ませ、その瞳は寂しげにゆれています。
「会いにいけばいいじゃないか。きっと、その友だちも喜ぶぜ」
「どこにいるのかわからないのよ。たまに手紙が来るんだけれど、それがあたしの元へと届くころには、またどこかちがうところへ行っちゃうんだもの。だから返事も書けなくて」
おれみたいなやつだな、とフェイイェンは笑ってしまいました。マリアもつられて笑って、そして空を見上げてつぶやきました。
「そうよね……会いたいのなら、自分から行かなくてはいけないわよね。
でも……あたしがこの村を出ていったら、アンネおばさまに心配をかけてしまうから。きっと、寂しい思いもさせてしまうもの。だから、やっぱりあたしはここにいないと。あの子とはいつかまたどこかで会える、そんな運命のめぐり合わせを信じることにするわ」
マリアは空から目をはなして、「そうだわ」とフェイイェンにいいました。
「楽器弾きなら、この村でも曲をきかせてくれるんでしょう? この広場で弾くなんてどうかしら。ここなら、村のみんなが集まってきくことができるわ」
フェイイェンはすこし考え、うなずきました。
「じゃあ、おことばに甘えて、ここを使わせてもらおうかな。今夜、この白い炎の下で弾くことにするよ」
楽しみだわ、とマリアが声をはずませました。
そんなふうに、ふたりが広場で話していると。長椅子の足元で、ちいさな陰が動くのが見えました。
フェイイェンは目を疑いました。それは、赤い三角帽子をかぶった小人でした。手のひらにおさまるほどの、ちいさな男の子だったのです。
「あら、こんにちは!」
マリアはおどろきもせずに、小人を手のひらにのせました。小人はなんだか、顔を赤くしながらマリアの手の中でもじもじと体をゆらしています。
「なんだ、そいつ……」
フェイイェンがつぶやくと、小人は目を細めてフェイイェンを見上げました。いかにも、気に入らないといったような表情です。「おまえこそ、だれだよ?」といっているような気がしました。
「この子はノームよ。ほかにもたくさんいるの。この辺りの森に住んでいて、はじめはあたしたちをこわがっていたのだけれど……すこしずつ、こうして仲良くなって。たまに人間の村にもやってくるようになったの」
ノームの男の子を手のひらにのせたまま、マリアはフェイイェンにたずねました。
「フェイイェンは、この世界には人間だけではなくて、人魚や巨人や……それに妖精とか。そういうひとたちがいるのを知ってる?」
フェイイェンは首を横にふりました。
「見たことはないな。でも、いないとも思ってないぜ。実際、今目の前にいるしな」
「そういうひとたちはね。すべてのひとたちが、そういうわけではないけれど……人間に、ひどいことをされて。人間から隠れて暮らしたり、おびえながら暮らしているの。ノームたちもそうよ。ここは、本当はノームたちの森だった。踏み入ってしまったのは、あたしたちの方。急に人間がやってきて、さぞやこわかったでしょうね……」
マリアは、手の中のノームの頬を優しく指先でなでました。ノームはすっかりとろけたような表情で、マリアの指先にすり寄っています。
その姿に、フェイイェンはすこしいらだちました。ちいさくたって、男の子であることにはかわりはないのです。気に入りません。
「……全然、こわがっているようには見えねえけど。おい、マリアの手から降りろよ。ちょっと体がちいさいからって、甘えるなよな」
フェイイェンのことばを、ノームはまるっきり無視しました。
「でもノームたちは、あたしたちがここに住むのを許してくれたわ。あたしね、そうやって人間と人間以外の種族が、すこしずつ寄り添いあって生きていけたらいいなって思うの。そういう世界にしていきたい。だからこうして、ノームたちがあたしたちのところに来てくれて、とてもうれしいのよ」
マリアは愛おしげな目をして、ノームを見つめました。
すると、ノームはふと姿勢を正して、マリアの手の中で跪きました。そして腰にさしていた一輪の花を、マリアに捧げたのです。
「まあ。あたしにくれるの? ありがとう!」
マリアは花を受け取ると、その三角帽子の先にキスをしました。ノームはこれでもかというぐらいうれしそうに跳ね回り、そしてばかにしたような、勝ち誇ったような顔をしてフェイイェンを見上げたではありませんか。
フェイイェンの顔が引きつりました。
(こ、こいつ……! さては、マリアのことを!)
フェイイェンの心の炎が燃えました。ノームはそんなフェイイェンにそっぽを向いて、マリアの手から飛び降りると、森の方へと走ってゆきました。
「あら、行っちゃったわ。なにか用事でも思い出したのかしら」
なにも知らないマリアだけが、ただひとり首をかしげていました。
♪ ♫ ♪ ♫
日が落ちて、街灯に明かりの火が入りました。
白くかがやく炎の下で、フェイイェンは背負っていた竹箱を開けました。中にはいくつかの楽譜の束と、そして大切な楽器がおさまっています。
「見たことない楽器だなあ。これ、なんていう楽器なんだい?」
演奏をききにきた人々が、興味津々といった顔でフェイイェンにたずねました。
楽器の胴の部分はちいさく、顔の大きさほどしかありません。指板は細長くて、張られた弦はたったの二本。弦は指板の先にある糸巻きに巻かれていました。
「これは二胡です。東の国でつくられた楽器で、馬の毛と蛇の皮が使われています。人の泣く声に似ている音だなんていわれますが、本当のところは、おれもよくわからないんです」
フェイイェンは苦笑いをうかべて、そう説明しました。どうやって演奏するのか、どんな音色が出るのか、人々には想像もつきませんでした。
フェイイェンは深く礼をすると、広場の長椅子に腰かけました。そして二胡を膝の上にのせ、右手で弓を構えます。
辺りが、しんと静まりました。皆が二胡の音色を、そしてフェイイェンの演奏を心待ちにしています。もちろん、マリアもその中におりました。
息をはく音が、かすかにきこえました。右手に持つ弓の毛が、弦をこすります。
その瞬間、しっとりとした深い音色が広がりました。
(まあ……)
マリアの青い瞳がゆれました。
ああ、なんて切ない音色なのでしょうか。切なくてもの悲しくて、心の奥底にまで沁みてゆくような。遠い昔の、時の流れによって忘れてしまった大切なことを、思い出させるような。心がしまるようで、けれど抱きしめられているようで、どうしようもなく涙があふれてしまうような。
細く長い指が、二本の弦をしなやかに押さえて音色を操ります。弓に張られた毛が、軽やかに弦をこすります。
フェイイェンには、まるで二胡の奏でる旋律の流れが見えているようでした。愛おしむような表情をしながら、その旋律の流れを見つめているようでした。フェイイェンは心から、この楽の音を愛しているのでしょう。
こわがられるんだ、といっていた切れ長の双眸の中に、儚いほどの美しい光が宿っているのをマリアは見たのです。
やがて、弓を動かす手が止まりました。演奏が終わったのです。一瞬のようで、それでいて永遠のようにも感じられました。
人々は、しばらくなにもいうことができませんでした。動くことも、息をはく音を立てることすら惜しく思われる静寂でした。
「あ、あのう……お気に召しませんでしたでしょうかねえ」
静寂を破るようにして、フェイイェンはすこし気まずそうに笑いながら人々にたずねました。それをきっかけに人々は立ち上がり、フェイイェンに盛大な拍手を送りました。
「……すばらしかった。それしかいいようがない。どんな賞賛のことばも、きみの演奏を前にしては陳腐にきこえてしまうだろう」
人々はフェイイェンを囲みました。竹箱の中には、たくさんの硬貨が投げ入れられました。思わず旋律に涙する人もいたし、もう一度きかせてほしいとせがむ人もおりました。
そのたびにフェイイェンは快く、何度も二胡を奏でました。
「おにいちゃん、あのう……昼間は、こわがったりしてごめんなさい。ぼく、おにいちゃんの音楽、すごくすきだよ」
子どもたちが謝りながら、フェイイェンの元へとやってきました。フェイイェンは笑って、子どもたちの頭をなでました。
月が高くのぼるまで、フェイイェンは二胡を奏でました。ときには、華やかな曲を奏でることもありました。けれどどんな旋律も、どこか切なさの混じった音色となって人々の耳に、そして心に届くのです。二胡の音色がそうさせるのか、それともフェイイェンの弾き方がそうさせるのでしょうか。
人々はいつまでも、フェイイェンの演奏をきいていました。
やがて広場が閑散としだしたころ、マリアがそっとフェイイェンのとなりに座りました。フェイイェンの動きは途端にぎこちなくなって、まるでさびた機械のような手つきで二胡をしまいました。
「ど、ど、どうだったかな。おれの、演奏……」
「……なんていうか、びっくりしちゃったわ。明るくて、ちょっとぶっきらぼうな口ぶりのあなたが、あんなにも繊細で切ない演奏をするんだもの」
フェイイェンは照れたように笑いました。
「たしかに繊細も切なさも、おれには似合わないことばだよな。ま、こういうのは弾き手の性格なんて関係ないもんだよ」
「そういうものかしら。ねえ、初めに弾いた曲は、なんという曲なの?」
「〈恋をした花〉。叶わぬ恋をした女の人を、一輪の花にたとえた曲さ」
「まあ。ますますあなたらしくないというか、なんというか」
マリアはくすくすと笑いました。そして、ふと寂しげな表情でつぶやきました。
「……悲しい曲なのね。恋が叶わないなんて」
「そうだな。でも、いい曲だと思うぜ」
「どうして?」
「この花は、枯れなかったから。葉が傷ついても、茎が痛んでも、枯れることを選ばなかった。枯れてしまえば、すべてをわすれることだってできたかもしれないのに。悲しみとかつらさとか、痛みを抱えて、この花は咲き続ける。おれは好きだな。だから、よく弾くんだ」
そういったフェイイェンの瞳が、白い炎に照らされてゆれていました。
マリアは座ったまま、静かにフェイイェンの話をきいていました。
「……また、きかせてくれる?」
「もちろん。その……マリアの頼みだったら、いつでもなんでも弾いてやるよ。おれが寝ているときでもさ。ききたくなったら、おれのことをたたき起こしてくれよな」
そういって胸をたたいたフェイイェンを見て、マリアはおかしそうに笑いました。
「なにそれ! あなたって、やっぱり優しい人だわ」
月の下の広場で、マリアとフェイイェンはいつまでも話し続けたのでした。
♪ ♫ ♪ ♫
広場で二胡を弾いてから、フェイイェンはたちまち注目を浴びるようになりました。村の中を歩いていると、大人からも子どもからも声をかけられるのです。気さくなフェイイェンは、すぐに皆と仲良くなりました。
「昨夜は、すてきな音楽をありがとう。はい、お礼にこれを持っていってね。わたし、すっかりフェイイェンさんのファンになっちゃったわ。もう、わたしがあと二十歳若かったら、あなたを放っておかなかったのに!」
そんなことをいわれて、フェイイェンはパン屋の女将から名物のパンをわたされました。女将の愛のことばにしどろもどろになりながらも、フェイイェンはありがたくそのパンを受け取りました。
(本当に、いい村だな。旅やめて、ここに住んじまおうかなあ)
そんなことを考えて、フェイイェンは「おれらしくないな」とひとり笑いました。いいなと思った村や町はいくつかありましたが、住みたいとまで思ったのはここが初めてでした。
(それってやっぱり、マリアがいるから……なのかな)
マリアのひまわりのような笑顔を思い出しただけで、胸がどきどきしました。同じぐらい、苦しくもなりました。いつもいっしょにいたいと思うのに、あの子の近くにいてはいけないような気もします。
(こんな気持ちは、初めてなんだ……)
自分の心が、まったくわかりませんでした。
自然と、フェイイェンの足はマリアの住む家の方へと向かっていました。
家の前に、アンネが立っているのが見えました。不安げな表情をしています。いつもとなりにいるはずの、マリアの姿がありません。
フェイイェンが声をかけると、アンネはすこしだけほっとしたような顔つきになりました。
「フェイイェンさん。マリアを見かけませんでしたか?」
「マリアを? 見ていませんけど……まさか、いないんですか?」
アンネはうなずきました。
「いつもは、朝になれば必ずわたしに声をかけてくれるのに。今日は、あいさつもなにもなくて……村にいるのなら、いいのですけれど」
なにかあったにちがいない、とフェイイェンは眉を寄せました。あのマリアが、アンネに一言も声をかけずに家を出るわけがありません。
「おれが、マリアを探してきます。でもその前に、もう一度家の中を見てみるべきだ。もしかしたらマリアは家にいて、声を出せない状態なんてこともあるかもしれないし……そんなことはあってほしくないけど」
フェイイェンはアンネの腕を取り、ふたりは家の中へと入りました。
居間にも台所にも、マリアの姿はありませんでした。すこしばかりうしろめたさを感じながら、マリアの部屋ものぞいてみました(女の子の部屋に入るなんて、フェイイェンにとっては前代未聞のできごとでしたから!)。けれどやっぱり、マリアの姿はどこにもありませんでした。
「いないな。じゃあ、やっぱり村の方へと出かけているのか?」
「あの……フェイイェンさん。これは、なにかしら。今、マリアの部屋の窓辺に触れたら、これが手に当たって……」
アンネが手の中で探るようにしながら、おそるおそるそれを差し出しました。
それは、きのこでした。それも、紫色をしたあやしげなきのこです! 傘の部分がすこしだけかじられていました。
「……変な色をしたきのこですね。かじられたあとがある。……あの、マリアがいなくなったのって、ひょっとしたらこのきのこが原因なんじゃねえかな」
「まあ……あの子ったら、またおかしなものを食べて」
アンネはあきれたように頬に手をあてて、ため息をつきました。
フェイイェンは、きのこが置いてあった窓辺のそばに寄りました。そして、見つけたのです。
窓辺に、人間よりもはるかにちいさな足あとが、いくつも残されているのを。足あとは、森の方へと続いていました。
フェイイェンは短く息をはき、そして静かな声でアンネにいいました。
「マリアは、必ずおれが連れ戻します。心配しないで。アンネさんは、家で待っててください」
フェイイェンは窓枠に手をかけ、そこから音も立てずに地面に舞い降りました。
ちいさな足あとを、フェイイェンは追ってゆきます。レンガの道にはくっきりと足あとが残っていましたが、森の中に入ってからは途端にわからなくなりました。わずかな土のへこみを見逃さないようにして、進まなければなりません。
いつのまにか、森の奥にまでやってきていました。これ以上やみくもに先へと進んでしまっては、いよいよ帰り道がわからなくなりそうです。こまったな、とフェイイェンはため息をついたとき。
ふいに、だれかに呼ばれた気がしました。
フェイイェンはふりかえりましたが、だれの姿もありません。空耳かな、と思っていると――風の音の中にまぎれて、たしかに自分の名を呼ぶ声がきこえました。
「――ここよ、フェイイェン! 気づいてちょうだい!」
足元から声がきこえます。地面を見下ろして、フェイイェンは目を見張りました。
木の根本に、ちいさなちいさなマリアの姿があったのです。それも、木の実や花びらをいくつもまとっていました。頭には薄いベールまでかけられて、まるで森に住む花嫁のような姿をしているではありませんか。
思わず、フェイイェンはそんなマリアに見とれてしまいした。
「か、かわいい……じゃなかった。マリア、ここにいたのか。なんで、そんなちいさくなってるんだよ!」
「ノームたちがくれたきのこを食べたら、体がちぢんでしまったのよ」
マリアはけろりとした顔でそういいました。ことの重大さを、あまりわかっていないような口ぶりです。
「やっぱり、あのきのこをかじったのはマリアだったのか。あんなあやしい色をしたきのこを食うなんて、勇気があるなあ」
「だって、せっかくノームたちがくれた贈り物よ? 食べないのはあの子たちに悪いじゃない」
そうかな……とフェイイェンはことばにつまってしまいました。いくらノームと仲良しであろうと、さすがにふつうの人間は紫色のきのこなんて食べないんじゃないかと思いました。
(アンネさんも、『またおかしなものを食べて』なんていってたしな。もしかしてマリアって、ひょっとしたらとんでもない女の子なのか? ま、そういうところも、マリアのいいところなんだろうけどさ)
考えこんでいるフェイイェンの足元で、マリアはこまったように頬に手をあてました。
「でも、体がちいさくなったら、ノームたちに森まで連れてこられてしまって。それでなんだか花びらやらベールやらを着せられて……どうしよう。今ごろアンネおばさま、心配しているわよね。なにもいわずに出てきちゃったもの」
「そりゃそうさ。とにかく、今は戻ろうぜ。体を元に戻すのはあとだ。まずは、アンネさんにマリアを見つけたことを伝えないと」
ところが。フェイイェンがマリアをすくいあげようとしたその瞬間、横からノームの大群がやってきて、マリアをかっさらっていってしまったのです。
「きゃあ! やめて、降ろしてよー!」
マリアの姿は悲鳴とともに、あっというまに森の奥へと遠ざかってゆきました。
「あ、この! マリアを返せよ!」
フェイイェンも後を追おうと立ち上がりました。しかしその途端、その場に派手に転んでしまいました。知らぬうちに、足元に草の輪を作られていたのです。まんまと、それに足をとられたというわけです。ノームの仕業にちがいありません。
「く、くそ……あいつら、ゆるさねえ……」
フェイイェンはしぼり出すような声を出すと、再び立ち上がります。
「いってえ!」
額になにかが当たりました。足元に、まるまると太った木の実が落ちています。何人かのノームたちが、木の枝から木の実を飛ばしているのです。
ノームたちは笑い声をあげながら、次々に木の実を飛ばし始めました。額やら腕やら脛やらに当たって、もう散々です。
「ちくしょう! おまえら、あとで覚えてやがれ!」
木の実の弾を必死で避けながら、フェイイェンはマリアを追いかけました。
♪ ♫ ♪ ♫
マリアはノームに抱きかかえられたまま、森の中をものすごい速さで進んでいました。隙を見て逃げてやろうとしましたが、ノームたちはそのちいさな体に似合わず足が速いし、力も強いしで、うまく抜け出すことができません。
(もう! 体さえおおきければ、すぐに逃げられるのに!)
今さらになって、マリアはなんのきのこか確かめもせずに食べたことを後悔しました。
やがてマリアとノームの大群は、ちいさな村へとたどりつきました。ノームの住む村です。
切り株や、きのこをくりぬいてつくられた家がいくつも並んでいました。屋根のようにおおきな葉の下には、枝を組み合わせて作られた椅子が置かれています。
まさに絵本に出てくるような、おとぎの世界そのものでした。こんな状況でなければ、ゆっくり観光でもしたいところです。
「ちょ、ちょっと! いいかげん降ろしてってば!」
マリアがさけぶと、ようやくノームたちはマリアを降ろしてくれました。目の前には、木の枝や石を積み重ねてできた、立派な建物がありました。窓にはガラスの破片がはめこまれています。
「ここって……もしかして、教会?」
マリアが首をかしげていると、ノームたちが両開きの扉に手をかけました。
扉の先には赤い絨毯が敷かれた道が続いていて、両端には長椅子が並べられていました。それはもう、忠実に人間の世界の教会を真似ていたのです。マリアはびっくりしてしまいました。ノームたちはふだんから、こっそりと人間たちの暮らしをのぞいていたのでしょうか。
絨毯の先には、広場でマリアに花を贈ったノームの男の子が、そわそわとしながらたたずんでいました。立派な服に身を包み、首には蝶ネクタイなんか巻いています(赤いとんがり帽子はいつもと同じように、頭にのっていましたが)。
唖然としているマリアの背中を、ほかのノームたちが押しました。そして、正装をしたノームのとなりにマリアを立たせます。
ノームは顔を真っ赤にさせながら、それでも瞳をきらきらさせて、マリアを見ていました。
「あの……もしかしてあたし、あなたと結婚させられそうになってる?」
こまったようにマリアがいうと、ノームはうんうんとうなずきました。マリアが思ったとおり、その正装は新郎のつもりだったのです。
「そんな……あたし、あなたと結婚することはできないわ。ごめんなさい」
マリアが謝ると、新郎はおどろいたあと、あたふたと両手を動かしました。ほかのノームたちも、ざわざわと騒ぎ出します。
新郎は教会に飾られていた花を一本ぬいて、マリアに差し出しました。マリアははっとして、広場の長椅子で起きたことを思い出しました。
「……あの花は、結婚してくださいっていう意味だったのね? あたしが受け取ったから、あなたはあたしにも、そのつもりがあると思ったんだわ」
いつまでも花を受け取らないマリアを見て、新郎は今にも泣きそうな顔をしながら、押しつけるようにしてマリアに花を差し出しました。
マリアは、首を横にふりました。
「本当にごめんなさい。知らなかったの……ノームが花を贈ることに、そんな意味があったなんて。でも、あたしはここでは暮らせないわ。帰らなくちゃ」
マリアがそうつぶやいたとき、急に教会の外が騒がしくなりました。
「マリア、どこだー! 助けにきたぞ!」
「フェイイェン!」
マリアはさけび、ノームたちの波をかき分けながら教会の外へと飛び出しました。巨人のようなフェイイェンの姿が目に入ります。
「フェイイェン! あたしはここよ!」
マリアの呼び声に気づいて、フェイイェンがふりむきました。
フェイイェンの体には、やたらと草の汁や落ち葉がひっついていました。木の実の弾による傷や痣はさらに増えていました。
「まあ! 傷だらけじゃないの! どうしちゃったのよ、だいじょうぶ?」
「い、いろいろあったんだよ! 決して、ノームのやつらが作った罠全部に、引っかかったわけじゃねえからな! とにかく、さっさとここからずらかろうぜ」
フェイイェンはマリアに手を伸ばそうとしました。
さて。そんなフェイイェンを見て、ノームたちはどう思うでしょうか――。
当然というかなんというか、そんな姿はどこからどう見ても「花嫁をさらう悪い巨人」。巨人を退治しようと、何人ものノームたちが教会の前へと集まってきました。
ノームたちはなにやらかけ声を合わせると、フェイイェンに向かって飛びかかりました。手足に飛びつき、ちいさな口でかみつきます。
「いってえな! やめろ、このやろ!」
フェイイェンは顔をしかめて、飛びついたノームをはらい落としました。しかしノームたちは意外と頑固で、めげずにまた体によじ登ってかみつきます。
「あなたたち、フェイイェンからはなれなさいよ!」
マリアも必死にノームたちを引き剥がそうとしました。しかしなんて力強い顎なのでしょう、かみついたノームはびくとも動かないのです。
ひとつひとつの痛みはちいさなものでも、数が多ければたまったものではありません。フェイイェンはよろけながらも、どうにかノームや村の建物は踏みつけないように気をつけながら、必死で応戦しました。
「あ、ばか! 服の中に入るなっ!」
フェイイェンがさけびました。その瞬間、フェイイェンは狂ったように笑い出しました。服の中でノームたちが体をくすぐっているのです。
「ば、ばか、やめろ! ひゃ、ひゃははは! やめろ、やめてくれ!」
酔っ払ったかのように、フェイイェンはその場でくるくると踊り出しました。もはや為す術はありません。
しつこいほどにくすぐられたフェイイェンはその場にうずくまると、ぜえぜえと荒い息をはきながら、ついには動けなくなってしまいました。完敗です。巨人を倒したノームたちが、うれしそうに歓声をあげました。
「やだ! フェイイェン、だいじょうぶ?」
フェイイェンのそばに駆け寄ろうとしたマリアの手を、新郎のノームがつかみました。巨人が倒れている隙に逃げ出すつもりなのです。
「やめなさい!」
その手をマリアがふりはらい、りんとした声でさけびました。
マリアの声に、辺りが静まりました。たくさんのノームたちが、マリアの方へとふりむきました。マリアはひるむことなく、堂々としながらノームたちを見返しています。
おろおろとしている新郎に、マリアははっきりといいました。
「あなたを勘違いさせてしまったのは、本当に悪かったわ。ごめんなさい。でもね、何度もいうように、あたしはあなたと結婚することはできない。ノームと人間だからじゃないわ。本当に気持ちが通じ合っているのなら、人間とノームが結婚したっていいと思う。でも、あたしたちはちがうわ。おたがいの気持ちが、同じじゃない。あたしはあなたを、一生をかけて愛するたったひとりのひととして見ることはできないのよ」
ちいさな体のマリアの声とは思えないほどに、それはおおきく、よく通った声をしていました。
マリアは頭のベールを外し、地面に置きました。
それを見た、新郎の体がふるえました。そしてなんということでしょう、いきなり泣き出してしまったのです。それはもう、赤子のように盛大に泣き出しました。
ノームたちが大あわてで、新郎をなぐさめ始めました。新郎は泣きやみません。だだをこねるように、その場で地団駄をふんでいます。
ノームたちは、マリアをきっとにらみました。ひどくおこっているようでした。
「な、なによ……あたし、本当の気持ちをいっただけだわ!」
マリアはいいかえしましたが、ノームたちは聞き入れません。飛びかかって、マリアを取り押さえようとしました。マリアは悲鳴をあげて、ノームたちの波から逃げ出しました。
「マリア!」
マリアの体を、フェイイェンがすくいあげました。そして肩にのせて、森の外へと走り出しました。とにかく、走り続けました。
ノームたちはしばらく後を追いかけてきましたが、やがてあきらめたのか、その姿は見えなくなりました。そこでようやく、フェイイェンは足を止めることができました。
「ふう。どうにか、逃げ切ることができたな」
とにかく乱れた息を整えようと、フェイイェンは木の幹にもたれかかりました。肩の上では、マリアが沈んだ顔をしています。
フェイイェンはなるべく明るく、マリアに声をかけました。
「元気出せよ。あとすこしで、小人の嫁さんになるところだったんだぜ」
「……そうね。これでよかったのよね」
「当たり前だろ。あれが、マリアの本当の気持ちなんだからさ。それにしても、マリアはすげえな。女の子なのに、あんな大勢のノームに囲まれたって、はっきりと自分の気持ちをいえるんだから。勇気があるっていうか、度胸があるっていうか……とにかく、おれはきいててすっきりしたよ」
フェイイェンは腕を組み、うんうんとうなずく仕草をしました。
マリアは肩を落としたまま、ちいさな声でいいました。
「……あたしが、勘違いさせてしまったの。ノームのこと、よく知らなかったから。あたしがあの花を受け取ってしまったから、あの子を泣かせてしまったんだわ」
「けっ、泣けば好きな女の子が手に入るなんて、そんな考えが甘っちょろいんだ。すこしぐらい傷つかねえと、男は強くはならねえよ。あいつには、その傷が必要だろ。見たところ、みんなから大切にされすぎた、おぼっちゃんのようだったからな」
フェイイェンはおこった顔でそういいました。でも、ただおこっているというよりも、本気であのノームのことを思っていっているような口ぶりでした。
マリアはまだ、肩を落としています。
「……もう、ノームは人間のことをきらいになってしまったかしら。あたしは、人間とノームの仲を引き裂く、きっかけになってしまったのかしら……」
「そんなことはないさ」
フェイイェンがそうこたえました。肩の上で、マリアはフェイイェンの顔をのぞきこみました。
「どうして、そう思うの?」
「おたがい、命はとらなかったからな。命をうばわなければ、きっとまたわかり合える日が来る。あいつが失恋の傷から立ち直ったら、また村に来るさ。案外、あきらめてなかったりしてな」
「あら……それはそれで、ちょっとこまっちゃうわ」
ようやくマリアの顔にすこし笑顔が戻り始めたので、フェイイェンはほっと胸をなでおろしました。
「それにしても、ノームって結構かしこいのな。草の輪を作って転ばせるし、木の実は飛ばしてくるし、体をくすぐるし……ちいさいからって、あなどれないやつらだ」
「ふふ。あのね、こんなことをいうと、あなたにおこられそうだけれど。くすぐられているあなたの姿、なんだかおかしくて……あたし、ちょっと笑っちゃったわ。ああやだ、思い出したら、また笑いがこみあげてきた」
ついにマリアは声をあげて笑い出しました。こうなるともう止まりません。マリアはいつまでも、フェイイェンの肩の上で笑い続けました。
「ちぇっ。助けにいったのに、かっこいいどころか情けないところばっかり見せちまったなあ……」
フェイイェンはがっくりとうなだれました。けれどマリアの楽しそうな表情をみて、「まあいいか」と自分も笑ったのでした。
♪ ♫ ♪ ♫
マリアの体のおおきさは、案外簡単に元に戻ることができました。ためしにもう一度きのこをかじってみたら、元の大きさに戻ったのです。
「どうやら、かじる場所が重要みたいだな。傘のところをかじるとちいさくなって、柄のところをかじるとおおきくなるらしい」
つくづく変なきのこだな、とフェイイェンは思いました。
残ったきのこをどうしようか迷って、結局マリアはスカートのポケットに入れました。大変な目にはあいましたが、めずらしいものだし、それにノームからの贈り物であることにかわりはありません。
「フェイイェン。あたしを助けにきてくれてありがとう」
いきなりマリアに間近に顔を寄せられて、フェイイェンの顔がさっと赤くなりました。
「よ、よせよ、礼なんて。助けるのは当然だろ。マリアがこまっていたら、おれはどこにだってかけつけるさ」
赤くなった顔を見られないように、フェイイェンはさっさと歩き出しました。
「はやく帰ろうぜ。アンネさんが心配してる」
「そうね。それに、あなたの傷の手当てもしないと……」
「これぐらい、なんともねえよ。昔っから、体だけはやけに丈夫なんだ」
フェイイェンは振り返り、両手をひらひらと振りました。
森を抜け出し、やがてマリアの家が見えてきました。ただでさえ、アンネは目が見えないのです。いきなり自分がいなくなって、今ごろアンネは不安な思いをしているにちがいありません。そう思うとマリアの心は痛みました。
「あら……? 家の前にだれかいるわ」
マリアはいぶかしげな顔をしながらいいました。家の前で、だれかがアンネと話しています。
「村の人じゃあなさそうだな。あんなでかいやつ、この村にはいなかっただろ」
フェイイェンも顔をしかめました。
背は高く、そしてなにより、あんなにもあやしい格好をした人を、ふたりは知りませんでした。服は足先を隠すほどにまで長く、見るからに上等そうな外套を羽織っています。頭から深く頭巾をかぶり、口元から上には仮面をつけていました。その体つきからして、おそらく男の人だろうとマリアたちは思いました。
仮面の男はアンネの手をつかむように取り、引き寄せました。アンネは不安げな顔をしながら、やんわりとその手を外そうとしました。
「あの……困りますわ。わたしは、この家でマリアたちの帰りを待たなければ。フェイイェンさんがきっと、マリアを見つけてくれますもの……あの子たちが帰ってきたときに、この家にだれもいなかったら心配させてしまいます。どうか、お引き取りください」
「虚言だ。その者は、おまえに嘘をついたのだ。もうこの村にはいない。おまえの大切な者を探してなどいない」
不思議と男の声にも、女の声のようにもきこえました。信じられない、といった顔でアンネはその仮面で隠れた顔を見上げました。
「そんな……」
「ここで待っていたとて、だれも帰ってはこない。おまえの持つ、大切な……思い出の輝きの源となる者。わたしが、会わせてやろう」
アンネの腕をつかんだまま、男はそうこたえました。
「ちょっと! あなた、アンネおばさまになにをする気なの?」
マリアのりんとした声が、辺りに響きました。アンネがマリアの方へと振り向きます。
「マリア! ああ、わたしの大切な子。そこにいるのね? よかった……」
「虚言をいっているのはあんたの方だぜ、仮面やろう。どこのだれだか知らねえけど、アンネさんをそそのかしてどうするつもりだ? 今すぐ、その手をはなしてどこかへ消えな」
マリアの隣で、フェイイェンも低い声でいいました。
仮面の下から、舌を打つ音がきこえます。
「だれにも、邪魔はさせぬ……」
そうつぶやき、男はアンネを抱えあげると風のように走り去りました。
「いや! アンネおばさま……! 待ちなさい!」
その後ろ姿を、すかさずマリアとフェイイェンが追いかけました。
「な、なんだ、なんだ? 今のはいったい……」
村の通りを駆け抜けてゆくその姿に、人々が驚き後ずさりました。仮面の男は氷の上を滑るようにして、通りを抜けてゆきます。しかし、マリアとフェイイェンも負けてはいません。男を見失うことなく、その背中を追いかけます。
ついにふたりは、仮面の男を広場まで追いつめました。男は肩に抱えたアンネを下ろすと、忌々しそうにふたりの方へと振り向きます。仮面の下からでも、氷のように冷たい視線が感じられました。マリアたちもにらみ返します。
「もう逃げられないわよ。これ以上アンネおばさまになにかしたら、許さないんだから!」
「邪魔をするなと、いったはずだ……わたしには、この者が持つ輝かしい思い出が必要なのだ。この者が心の底に抱く思い出は、まぶしいほどに輝いている……」
男はじっと、アンネを見下ろしました。
「なにを、ごちゃごちゃとわけのわからねえことをほざいてやがる。さっさと、アンネさんを返しな」
吠えるように叫んだフェイイェンには見向きもせず、男は長い袖から一本の笛と一枚の譜面を取り出しました。その笛を見て、フェイイェンの眉がかすかに動きました。
「その楽器は……尺八」
「邪魔者は消す。ただそれだけだ」
男が口元に尺八をあて、旋律を奏でました。
するどい音色が響き渡りました。それはすべてを吹き飛ばす嵐を思わせるような、はたまた森の中を駆ける獣を思わせるような、そんな激しい旋律でした。その音色に、きいた者たちの体が震えます。
(こいつ……とんでもねえ楽器の手練れだ。こんな演奏ができるようになるには、いったいどれほどの時間をかければ……いや、今はそれどころじゃねえ。とにかく、あのやろうからアンネさんを引きはなさねえと)
フェイイェンがそう思ったとき。
尺八の音がやみました。演奏が終わったのです。
すると――男が尺八とともに取り出した、一枚の譜面が光り出しました。譜面に書かれた音符や記号は、光を帯びたまま譜面からうかびあがります。
マリアもフェイイェンも、その不思議な光景に目を見張りました。
光はさらに強まり、形をかたどって、やがて白い虎となりました。巨大な虎でした。
虎は村の人々の姿をとらえると、大きく咆哮をあげました。
「と、虎だあー! 虎が出たぞ!」
人々は悲鳴をあげ、もみくちゃになって逃げまどいました。男は広場の中心に立ったまま、表情を変えることなくいいました。
「白虎。おまえをこの世界に出してやったのは、このわたしだ。おまえの曲を奏でることができるのは、わたしぐらいだろう。
久々に外に出て、血に飢えているか? わたしに協力するのならば、この世界に存在する、すべての強者と戦わせてやろう。命を奪い、おまえが最も強者であることを証明すればいい。それがおまえの野望のはずだ」
虎は一度、ちらりと男の方へと振り向くと、再び広場へと目を向けました。かすかに、男の口元が笑ったように見えました。
「この村の者たちは、皆まばゆいほどに輝かしい思い出を持っているな。殺してしまうのは、すこしばかり惜しいものだが――どのみち、楽器は今はひとつしかない。思い出を奪うのはひとりだけでいい。あとは邪魔者だ。……噛み殺せ、ひとり残らず」
男にこたえるように、虎が吠えました。空気を切り裂くようなその声に、広場は大混乱に陥りました。
「まずい! おい、みんな落ちつけ!」
「やみくもに逃げたら、かえって危険だわ!」
マリアとフェイイェンが叫びましたが、気が動転している人々にはその声は届きません。
どうにかしないと、とマリアがこぶしをにぎりしめたときでした。
「やめて! はなしてください!」
アンネの悲鳴のような声がマリアの耳に入りました。はっとしてマリアが振り向くと、アンネが男につかまれています。
男が、アンネの耳元でささやくようにいいました。
「Good night and joy be to you all……まばゆい記憶の光よ、我が元に」
それをきいたマリアの背筋が、凍るように冷たくなりました。
(な、なんなの? 今のことばは……ひょっとして、呪文? 呪文と楽器……まさか、なにかおばさまに魔法をかけようとしているの?)
呪文を唱えた男が、再び尺八を吹きました。先ほどの旋律とちがい、きいているだけで不安な気持ちになる音色でした。決しておおきな音ではないのに、その音は体をつらぬくように響き、いつまでもまとわりつくようでした。
奏でられる音をきくたびに、体の中が尺八の音で埋めつくされてゆくような気分です。なにも考えられなくなりそうでした。
アンネが頭を抱え、よろけました。
「アンネおばさま!」
マリアは全速力で駆け出すと、アンネを抱きしめてかばいました。そして、男の手から尺八を奪います。その瞬間、尺八の先にちいさなひびが入りました。
男がマリアを見下ろします。
「おのれ、小娘……! まだ、思い出の抽出が完全に終わっていないというのに。どいつもこいつも、わたしを手こずらせおって。邪魔をするなと何度もいわせるな!」
「いいかげんにして! アンネおばさまに、なにか悪い魔法でもかけるつもりだったんでしょう! 許さない。あなたのこと、絶対に許さないわ!」
「もう、いい。この村にもう用はない。白虎。この者たちを殺してしまえ」
男の声に従うように、虎は向きを変えマリアの元へと迫りました。
(いや! おばさまだけは、絶対に死なせない!)
マリアは目をつむり、強くアンネのことを抱きしめました。
虎の牙が、まさにマリアの体に食いこもうとしたその瞬間。虎の体が、勢いよく突き飛ばされました。
フェイイェンが飛び蹴りをくらわせたのです。風のような速さでした。楽器を背負っているというのに、それすら感じさせない身のこなしです。
広場の石畳を転がった虎は体勢を立て直し、フェイイェンにうなり声をあげました。警戒するように、フェイイェンの周りをぐるりと回ります。
フェイイェンの瞳には、氷のようにつめたい光が宿っています。広場の空気が、ぴんと張りつめました。
男は口元に笑みをうかべて、フェイイェンを見下ろしました。
「小僧。まさか身ひとつで、白虎と戦うつもりか? 命知らずめ」
「ああ、そのとおりさ」
フェイイェンはにこりともせず、するどい瞳を向けたままこたえました。
男は笑うのをやめ、忌々しげな声でフェイイェンにいいました。
「……どうやら、本気のようだな。勝ち目のない戦いに挑むなど、愚か者のやることだ」
「ま、その意見にはおれも賛成するよ。だからおれが本当に愚か者かどうか、てめえはそこで指でもくわえて見てな」
低い声で、フェイイェンはこたえました。
さそうように、フェイイェンは虎に向かって手のひらを差し出し、手招きました。
「来いよ。村の人に噛みつくなんざ、このおれが許さないぜ」
フェイイェンの周りの空気が、ゆらめきました。だれも近づくことのできない、さすほどの氷の棘のような空気が、フェイイェンの体をまといました。
虎は地の底にまで響くような咆哮をあげ、フェイイェンに襲いかかりました。
「フェイイェン、だめ! にげて!」
マリアは真っ青になってさけびました。
フェイイェンは逃げませんでした。虎から目を背けることもありませんでした。両手を構えたまま、軽くその場で飛び跳ねます。
そして、迷わずこちらへ向かってくる虎の頭を、すばやく蹴り飛ばしたのです。
虎はよろけ、立派な牙から血が流れました。休む隙すら与えずに、フェイイェンは再び虎の頭を蹴り飛ばしました。
突風のように繰り出されるその足技に、虎は手も足も出せません。
それを見た男の声に、あせりの色がうかびました。
「なにをしている! 白虎、おまえは最強の虎。小僧ひとりにやられるような者ではないはずだ!」
男の声に虎は立ち上がり、再びフェイイェンに飛びかかりました。フェイイェンは身をひるがえし、宙を舞うように跳んで、虎の牙を避けます。
牙も爪も、フェイイェンにかすり傷ひとつ負わせることはできませんでした。何度身をひるがえしたって、息を切らすことがないのです。
その姿はまさに空を自由に舞い、宙を描き、どこまでも飛べる力強い翼をもった燕。虎は飛び回る燕に翻弄されるばかりで、一向にその命を狩ることができないのです。
「……虎のくせに小僧ひとりの命すら、とれぬというのか!」
いらだった男の声が、広場に響きました。
虎はすっかり息が上がってしまって、もはや最初のころの威勢のよさはどこにもありません。よろよろとしながら、それでもフェイイェンにかみつこうと首をもたげました。
フェイイェンはそれを軽々と避け、そして虎の首元に踵を落としました。その強烈な一撃に虎はうめき、その場にくずれおちました。
「おいたがすぎるぜ、子猫ちゃん。出直してきな」
くずれおちた虎に向かって、はき捨てるようにフェイイェンはいいました。
すると、虎の体は光の粒となって消えてしまったのです。
男が歯ぎしりをしたのがきこえました。フェイイェンは指の骨を鳴らしながら、氷の刃のような瞳を男に向けました。
「さあ、次はてめえの番だ。覚悟はできているんだろうな?」
「……白虎め、まさか人間ごときに負けるとは……おまえの顔を覚えておこう。いつか必ずや、この白虎がおまえの体に牙を突き立てる日がくる。それが、おまえがこの世を去る日となるだろう」
男はそういいのこすと、外套をひるがえし人の波の中に消えました。
「待ちやがれ!」
フェイイェンはそれを追いましたが、混乱した人々の波をかき分けたころには、男の姿はすでになくなっていました。
フェイイェンは舌を打ち、村の人々に声をかけました。
「だいじょうぶか? しっかりしろ」
「あ、ああ……本当に助かったよ、フェイイェンさん。あなたがいなかったら、この村はどうなっていたか……!」
「心配するな。あいつはもう、どこかへ逃げていったから」
おそろしさでふるえている人々に、フェイイェンは優しく声をかけました。そして、心配そうにマリアとアンネの方を見つめました。
広場の端で、マリアがアンネに必死に呼びかけていました。
「アンネおばさま! だいじょうぶ? しっかりして!」
「あ、ああ……頭が、痛い……」
アンネはつらそうな顔をしながら、こめかみを押さえています。
「おばさま! あたしよ、わかる? マリアよ!」
アンネは何度もマリアの名前をつぶやき、マリアの顔を見つめました。
しかし、次にその口から出たことばは、とても信じたくないものでした。
「マリア……どなたでしょうか? わたしには、そのような名の知り合いは……」
マリアの顔から、血の気が引きました。体をふるわせ、アンネの頬に手を添えました。
「うそ……うそよ。冗談はやめて。本気じゃないわよね?」
マリアがそういっても、アンネの表情はくもるばかり。マリアの心臓が、ばくばくと音を立てました。
「そんな……アンネおばさま、あたしのことがわからないの? いつもいっしょに暮らしているじゃない! あたしのこと、本当の娘みたいだって、いってくれたでしょう」
マリアはうったえるように、アンネの体をゆさぶりました。アンネはこまったような顔をしながら、ごめんなさい、と謝りました。
「そんな! いや、いやよ! アンネおばさま! アンネおばさまったら!」
マリアは真っ青な顔のまま、何度もアンネをゆさぶりました。
「マリア……一度、アンネさんをはなしてやってくれ。アンネさんも、きっと混乱してるんだ」
静かな声でフェイイェンがいうと、マリアはふりむき、大粒の涙をこぼしました。
「フェイイェン、あたしどうすればいいの? アンネおばさまが、あたしのことわすれちゃった。たったひとりの家族なのに!」
マリアはすがるようにして、フェイイェンにしがみつきました。フェイイェンの腕の中で、声をあげて泣きました。
フェイイェンはきつく唇をかみしめ、マリアの肩に自分の手をのせました。
「マリア、泣くのは今だけだぜ。気がすむまで泣いたら、アンネさんの記憶を戻す方法を考えよう」
フェイイェンは尺八吹きの男の姿を思い出しました。仮面の奥から感じた、人を射抜くような視線。とてもいいものではありませんでした。あの男はいったい、何者だったのでしょう。
(……くそ。あいつの奏でた音色の仕業か? 思い出がどうとかいっていたしな。それに、あの虎だってふつうの虎じゃねえ。あいつら、なにをたくらんでいやがる? 絶対に許さねえぞ……)
フェイイェンはさらに強く、唇をかみました。血が出てしまうのも構わずに。
アンネを連れて、ふたりは家へと戻りました。赤くなった目をこすり、マリアはフェイイェンにいいました。
「ごめんなさい。もう泣かないわ。あなたのいうとおり、まずはアンネおばさまの記憶を戻す方法を考えることが先よね」
フェイイェンはうなずき、マリアの前に座りました。
「おそらく、だけどな。あいつの尺八の音はふつうじゃない。きっとあの音をきいた人は、なにか大切な記憶や思い出をとられちまうんだ。輝かしい思い出が必要だって、あいつはいっていたしな。思い出の輝きなんて、どうやって見ているのかはわからねえけど」
「あたしも、そう思うわ。あの音、すごくいやな感じがしたし、それに……吹く前になにか呪文も唱えてた」
「呪文?」
マリアはうなずきました。
「あのね。この世界には……呪文を唱えて、楽器を奏でると魔法が使える種族がいるのよ。だからあのひとが呪文を唱えたとき、ひょっとしたらアンネおばさまに魔法をかけるんじゃないかって思って、それで必死で、おばさまのところに走ったの」
「じゃ、あいつはその種族の仲間ってことなのか?」
「……わからない。でも、きっとちがう気がする。その種族が使える魔法は自然の力を借りたものだし、それに……こんなひどいこと、あの子たちはしないわ」
マリアは沈んだ声でそうこたえて、うつむきました。
ふたりのそばで、アンネは申しわけなさそうな顔をしながら座っています。
「ごめんなさい、マリアさん。あなたのこと、とても大切な人だったような気がするのに……なにか黒いもやがかかっている感じがして、思い出せないの……」
マリアは微笑み、そっとアンネの手をにぎりました。
「だいじょうぶよ。あたしが必ず、おばさまの記憶を戻してあげる。だから、心配しないで……」
マリアが強がってそういっているのが、フェイイェンにはわかりました。なのでフェイイェンは明るい声で、ふたりにいいました。
「完全にマリアのことをわすれちまったってわけじゃなさそうだな。それならきっと、希望はある。この村のこととか、いっしょにくらしていたときのこととか……マリアとの思い出を話してきかせれば、それをきっかけにすこしずつ記憶を取りもどしてゆくかもしれない」
「そうね……簡単にあきらめたらだめよね。あたし、がんばってみる。あたしがずっと、アンネおばさまのそばにいるわ」
それからマリアは、アンネにいろいろなことを話しました。自分たちが生まれた故郷のことや、その故郷が魔物に滅ぼされてしまったことを。生き残った人たちとマリアが出会ったとき、人々は死んだ人の幻を見ていたことを。マリア自身もその幻に魅せられ、そんなマリアをアンネがずっと心配してくれていたことを。広場の白い炎は、人々の目を覚ますためにマリアが灯したことを。
それからずっと、いつだってアンネのそばにいたことを、思い出の紐をたどってゆくように、マリアはアンネに話をしました。長い長い、ふたりの思い出を、マリアは静かな声で語り続けたのです。
♪ ♫ ♪ ♫
それから、何日かがすぎました。
フェイイェンはひとりで、村の広場で楽器の手入れをしていました。広場にはほかにも人がいて、それぞれ休んだり談笑したり、子どもが駆け回ったりしていました。
あんな事件が起こりはしましたが、村は今日も平穏無事なまま。あれから尺八吹きの男を見かけることもなかったし、フェイイェンがこの村にやってきたころと、なんらかわりはありませんでした。
ただひとつ、ひとりの娘の笑顔が失われてしまったことをのぞいては。
「こんにちは。となりに座ってもいいかしら」
フェイイェンが顔をあげると、マリアが立っていました。出会ったころの元気な表情はなく、あまりねむれていなさそうでした。
フェイイェンはうなずき、体を端に寄せました。
「アンネさんの具合はどうだい?」
フェイイェンがたずねると、マリアは力なく首をふりました。
「だめ。ほかのことはみんな覚えているのよ。村の人のこともね。どうして、この村ができたのかだって。でも、その記憶の中にあたしはいない。あたしだけが、アンネおばさまの中からいなくなってしまったの……」
医者に診てもらっても、どこも問題ないといわれます。ちゃんと話すことだってできるし、たとえ記憶がなくても、アンネはマリアに優しく接してくれました。マリアも、今までと同じようにアンネと暮らしていました。
ふたりの生活は、見た目だけなら以前となにもかわらなかったのです。
「……ときどき、このままでもいいのかなって思うの。この五年間、いっしょに作った思い出が消えてしまったのは寂しいけれど、おばさま自身は、なにもかわってないから。あたしの大好きな、アンネおばさまのままだから。それならもう一度、こうしていっしょに暮らして、一から思い出をつくっていくのでもいいのかなって……」
フェイイェンは楽器の手入れを止め、静かにマリアの話をきいていました。
「……ね。フェイイェンがまだこの村にいる理由って、もしかしてあたしのせいかしら?」
いきなりそんなことをきかれて、フェイイェンは思わず楽器を取り落としそうになりました。
「な、な、なんでそんなふうに思うんだよ?」
「あたしが、こうしていつまでも元気がないから、心配してくれているのかなって。ほら、同じところにはあまり長くとどまらないっていっていたじゃない? だからそろそろ、次の村に行くころなのかなって思ったの。ねえ、フェイイェン。あたしね、もうだいじょうぶよ。だからあたしのことなんか気にしないで、旅に出てちょうだいね」
「あ、ああ……」
フェイイェンは曖昧に返事をしました。マリアのいうとおり、いつもならとっくに次の村へと向かっているころでした。
それでもこの村にいるのは、居心地がよかったからでもあったし、そしてやっぱり、マリアのことがとても心配だったからでした。
(おれはいったい、どうしちまったんだ。マリアのことが、気になってしかたがないんだ。マリアが、かわいい女の子だからか? かわいい女の子なんて、ほかの村や町にだっていたっていうのに)
そばにいたいと思いました。マリアを笑顔にさせてあげる、その力が自分にはないのが、とても悔しく思えました。
フェイイェンはひとつ咳払いをして、明るい声でいいました。
「マリアは、考えすぎだぜ。いいか? 旅なんてものは、出たくなったら出るもんなの。おれは、今は出たくない気分なんだ。ただそれだけのことさ」
「まあ。本当に自由な燕さんなのね」
マリアはすこし笑って、フェイイェンにいいました。フェイイェンも笑って、それから急にまじめな顔つきになってマリアを見つめました。
「無理するなよ。アンネさんのことだって……本当は記憶がなくなったままでいいなんて、そんなふうには思ってないんだろ?」
「……うん」
マリアはうつむき、ちいさな声でこたえました。いつものマリアからは想像もできない、消え入りそうな声をしていました。
けれど、マリアはすぐに顔をあげました。
「あ、でもね、本当にもう心配しないで。決して、あきらめたわけじゃないの。もしかしたら、ある日突然、思い出すなんてこともあるかもしれないから。時間はたくさんあるもの。すこしずつ、がんばっていこうと思うわ」
マリアの声は、さっきよりもずっと明るくなっていました。そして、マリアはすこしおこったようにフェイイェンの顔を見つめました。
「フェイイェン。いつかこの村を出るときは、ちゃんとさよならをいわせてね。勝手にいなくなったらだめよ? あなたは、なんだか気づいたらふらりといなくなっていそうだから」
「そりゃ、ひどいいわれようだな。旅に出るときは、ちゃんとあいさつする。約束するよ」
フェイイェンのことばをきいて、マリアはほっと胸をなでおろしました。
「あのね。あたし、あなたの二胡の音色をきいたとき、すごくいいなって思ったの。なんていうか、きいていたら、心の底にある大切なことを思い出させてくれるような気がして。それがなにかってきかれると、うまく説明できないんだけれどね……」
おかしいかしら、とマリアはいいました。フェイイェンは首を横にふりました。今まで演奏してきたときも、同じことをいわれたことがあったからです。
「音楽は、人の記憶や思い出と深く結びついているものなんだ。考えただけでは思い出せなくても、音楽をきけば思い出が一気によみがえるなんてこともある……」
フェイイェンはそこまでいうと、ふいに口をとざして考えこみました。
「……音楽が、心の底にある記憶をよびおこすものだとしたら。なあ、マリアにはアンネさんと深い関わりを持つ、曲や歌はないのか? いっしょにうたった歌でもいい。鼻歌でもいいんだ。もしもそれがあるなら、それをきかせれば、アンネさんはひょっとしたら……」
それをきいて、マリアは突然、ぱっと顔をあげました。
「……ある! あるわ! あたしたちの、大切な歌。それをうたえば、記憶が戻るかもしれない……」
ふたりはうなずくと、アンネの元へと向かいました。
アンネはひとり、窓辺の椅子に座って、鳥のさえずりや森のさざめきをきいていました。心は、どこか遠くにあるように見えました。
マリアたちの足音をきいて、アンネはふりむきました。
「おかえりなさい、マリアさん。それに……もうひとかた、いらっしゃいますね。お客さまでしょうか? 今、お茶をいれますね」
立ちあがろうとしたアンネの手を、マリアがにぎって座らせました。
「アンネおばさま。あたしたちが生まれた国に伝わる、子守唄。あたしにもうたってくれたでしょう? あたしが帰るところを失くして、ひとりで寂しい思いをしていたときに、あなたがうたってくれたんだわ。それを今、今度はあたしが、あなたにうたってあげる。きいてほしいの……」
マリアは、ちいさく息を吸いました。
やわらかい月の光に
小鳥も ゆらり 眠る
おやすみ 小さな手のひら
静かに 包み込んで
いつでも すぐそばにいるよ
やさしい そのこころに
あふれるような ぬくもりが
絶えぬように 願いながら
マリアはやわらかな歌声で、アンネにうたいました。フェイイェンは目を見張りました。
まるで天使がうたっているかのような、それは美しい声だったのです。
「ああ……なんて、なつかしい……」
深々とした声で、アンネはつぶやきました。
「その、歌は……〈願いごと〉だわ。遠い昔に、わたしもうたったのよ。娘と、孫と……」
アンネは目をつむりました。
(あと、もうひとり。それはだれだったかしら。希望の光をもった子。目の見えないわたしでも見えるほどの、まばゆい光よ。わたしの、大切な家族――)
大切なものを覆い隠していた黒いもやが、晴れてゆくようでした。
アンネが、目を開きました。その瞳から、涙が落ちました。
探るように、マリアの手や髪や、頬に触れてゆきます。
そして両頬を包みこむようにして、アンネはマリアを見つめました。
「マリア……わたしの、かわいいマリア」
アンネの瞳が、マリアを映しました。
「アンネおばさま……!」
マリアはちいさな子どものように、アンネの膝に顔をふせて泣きました。アンネはマリアの頭を、優しくなでました。
「ごめんなさい、マリア。ごめんなさい……この世で一番大切な、あなたのことを一時でもわすれていたなんて。わたしは、なんて罪深いのでしょう」
「いいのよ! こうして、また思い出してくれたんだもの! それだけであたしは、あたしは……!」
ふたりはおたがいを抱きしめ合い、いつまでも泣き続けました。
すこしはなれたところから、フェイイェンはそんなふたりをおだやかな目で見つめていました。
♪ ♫ ♪ ♫
マリアに一通の手紙が届いたのは、それからすぐあとのことでした。
差出人の名前を見て、マリアは目を見開きました。
「覚えてる? 前に、広場で楽器弾きの友だちがいるって話をしたでしょう。その子からの手紙だわ」
マリアのとなりで、フェイイェンも手紙をのぞきこみました。
「……なんか、めちゃくちゃいそいで書きましたって感じの文字だな。ひょっとしたら、急用が書かれているんじゃないか?」
手紙が来たのは、ずいぶんと久しぶりのことです。封を切ろうとして、マリアがナイフを手に取ろうとしたとき。
テーブルに置かれたカップが手に当たって、紅茶がこぼれてしまいました。こぼれた紅茶は、手紙の封筒にあっというまに染みをつくってゆきます。
「やだ! 手紙が!」
マリアはあわてて、紅茶の湖の中から手紙を救い出しました。半分くらい、ぬれてしまっています。
マリアはいそいで、封を切りました。
「親愛なるマリア
力をかしてほしいんだ。
今、世界のいろいろなところで、たいへんなことがおきてる。
、大切な思い出がなくなってしまうんだ。
それだけじゃない。 つかまっちゃった。
、ひとりではどうすればいいのかわからなくて。
今、砂漠の東にある山を越えたところにある、 にいる。
おねがい、どうかそこにきて」
案の定、手紙の一部がにじんで読めなくなっていました。かろうじて、砂漠のとなりにある山を越えたどこかにいる、ということはわかりましたが……。
「大変だわ。あの子、とてもこまってるみたい。もう、あたしったらこんな大事な手紙をよごしてしまうなんて!」
「ここも気になるな。『大切な思い出がなくなってしまう』って、まさにこの村でも起きたことだろ。あの尺八吹きのやろうが、関係しているかもしれねえな……」
フェイイェンは忌々しそうにつぶやき、爪をかみました。
すぐにでも行かなくちゃ、と手紙をしまったマリアの手を、アンネが探るようにしてにぎりました。
「マリア……村の外へ行くというの? それも、砂漠に山ですって? だめよ、そんな危険なところには行かないでちょうだい……」
アンネの表情は悲しげでした。心からマリアを心配しているのです。
「おばさま……でも、あの子をこのまま放っておけない。大切なお友だちなの。あの子が助けを求めるなんて、よっぽどのことが起きているんだわ。それに、どこかでおばさまのように、大切な人のことをわすれてしまっているひとがいるかもしれない。原因はまだわからないけれど、これ以上そんなことが起こってはだめなの……」
マリアがそう説得しても、アンネは渋い顔のまま。
「でも……あなたは地図を読めないでしょう? すぐに変なものを食べたりするし、よく知りもしない人に着いていきそうだし、心配でならないわ」
「お、おばさまったら! な、なにをいっているのかしら!」
マリアはあわてたように、声をあげてごまかそうとしました。そのとなりでは、フェイイェンが(やっぱりマリアってとんでもない女の子なんだな……)と心の中で思っていました。
「それにね……なにより、あなたは年ごろの女の子なの。女の子はその足で砂漠を越えたり、山を越えたりなんてしないわ。魔物がいなくなっても、世界には悪い人たちがたくさんいるの。そんな悪い人たちがねらうのは、いつだって力のない若い女の子なのよ。あなたが、それを知らないだけなの」
アンネのことばは深みがあって、真剣で、愛があって、マリアはなにもいうことができませんでした。
それに村の人たちがいるとはいえ、自分がこの家を出たら、アンネはまたひとりになるのです。寂しい思いをさせてしまうことになるのです。
(アンネおばさまのいうことは、もっともだわ。あたしを心配してくれているのも、わかってる。あたしは、この村にいるべきなのよ……でも、それでもあたしは、あたしの心が望むことは――)
部屋の静寂を破るように、フェイイェンが「あの」といいました。
「おれが、いっしょにいきます。アンネさん、それじゃだめですか?」
マリアもアンネも、おどろいたようにフェイイェンを見つめました。
「フェイイェン……そんなの、だめよ。だって、あなたは次の村に行って、そこで楽器を弾くって」
「あの尺八吹きのやろうが、おれも気になるんだ。なにをたくらんでいるのか知らねえけど、音楽で人を不幸にするなんざ、楽器弾きとして絶対に許せねえことだぜ。
それに、尺八も東の地で生まれた楽器なんだ。もしもあいつが東から来たのなら、同じ地の生まれとして、おれが灸をすえてやらねえとな」
アンネは眉を寄せ、じっと考えこんでいます。
フェイイェンは話を続けました。
「アンネさん。マリアは……本当に、その友だちのことが好きなんです。広場で、おれにその子のことを話してくれたとき、とても楽しそうだったから。会いたいなら、自分から会いにいかなくちゃっていっていたんです。今、その友だちになにか大変なことが起きていて、もしも二度と会えなくなったら……マリアは、まちがいなく後悔する。アンネさんだって、それはいやでしょう」
「フェイイェンさん……でも……わたし……」
「マリアが変なもんを食いそうだったら、おれが止めます。砂漠や山道を歩かせたくないっていうなら、おれがどこまでもマリアを抱えて歩きます。なにか危険なことが起きたら、おれが絶対にマリアを守ります。だからどうか、マリアにほんのすこしのあいだだけ、自由をあげてください」
マリアの、青い瞳がゆれました。
アンネはやがて長く息をはき、そして探るようにマリアの頬をなぞりました。
「マリア……わたしは知らず知らずのうちに、あなたから自由をうばってしまっていたのね。あなたがこの村に帰ってきたときから、あなたはほかの人のことや、わたしのことばかり考えて、自分のことは後回しだったもの。気づいてあげられなくて、ごめんなさいね……」
「ちがう、ちがうわ。あたし、そんなふうに思ったことなんてない。ただ、みんなのことが大好きだっただけ。みんなが、あたしにあふれるほどの愛をくれたから、それにこたえたかっただけなの。この村が大好きよ。あたしの帰るところはここなんだって、いつも思ってる。
でも、でも……それと同じぐらい、いっしょに旅をしていたひとたちのことも大好きだから。こまっているなら、助けを求められているのなら、力になってあげたいの。一目でいいから、元気な姿を見たい。会いにいきたいの……こんなわがままなあたしを、どうか許してくれる?」
こたえるかわりに、アンネは力強くマリアを抱きしめました。
そして、フェイイェンの元へとやってきます。
「フェイイェンさん。どうかマリアを、お願いします。この子は勇気があって、思いやりもあるけれど、ときどきひとりで、突っ走ってしまいますから」
不安げな顔をしているアンネの手を、フェイイェンはそっとにぎりました。その温かさに、アンネは安心したようでした。
明日の朝、村の入り口で待ち合わせる約束をして、フェイイェンはマリアの家をあとにしました。辺りはすっかり、夕暮れの色に染まっています。
「フェイイェン。本当にありがとう……あたしたちのこと、何度も助けてくれて」
玄関の扉をしめる前、マリアがそっとフェイイェンにいいました。じっと見つめられて、フェイイェンの心臓が速まります。
「いや、ええと、その。お安い御用さ。おれの方こそ、ふたりのあいだに首をつっこむようなことをいっちまって、悪かったな」
「ううん。あなたがいてくれたから、あたし、ずっとおしこめていた気持ちをアンネおばさまにいうことができたの。あたしひとりだったら、きっとこの村を出る決心はできなかったわ。あなたのおかげよ……」
そうして、ふたりは見つめ合いました。
速まった心臓は、落ちつきません。フェイイェンはつばをのみこみました。
「な、なあ、マリア。おれ……」
「あ、そうだわ。ずっとあなたにいいたいことがあったの。フェイイェンって、とーっても強いのね! 虎をひとりで倒すなんて! あたし、あなたにはびっくりさせられっぱなしだわ」
マリアがいきなり手を取ったので、フェイイェンはびっくりして変な声を出してしまいました。
「へ? え、ああ、ま、まあな。へへ、いいんだぜ? おれに惚れちまっても。なんて……」
「今度、手合わせしてほしいわ!」
「……は?」
「あたしもこう見えて、体を動かすのが得意なのよ。魔物だって、何度も倒したことあるんだから! あなたみたいな強い人と戦えるなんて、わくわくしちゃう。それじゃあ、明日からよろしくね! おやすみなさい」
マリアは得意げに胸を張り、そして笑顔で手をふると扉をしめてしまいました。
残されたフェイイェンががっくりと肩を落としたのに、マリアが気づくことはありません……。
♪ ♫ ♪ ♫
あくる朝、ふたりはついに村の外へと歩き出しました。
目的地までは、とても遠い道のりです。まず港村へと向かって、そこから船で砂漠へとわたり、そして砂漠を越え、山を越え、ようやくたどり着くのですから。それも、肝心のにじんで読めなくなった場所は、しらみつぶしに探さなければならないのです。考えただけでも、気が遠くなりそうでした。
「こうして歩いていたら、何日、いや何十日もかかっちまうなあ。おれはむしろ、その方がいいけど……じゃなくて。なるべく早く、その友だちのところに行けた方がいいよな。なにか、速く移動できる方法はねえかなあ」
「そうね……かといって、この辺りは馬車が通ってくれるわけでもないし。しょうがないわ、とにかく今は歩きましょう」
朝から休まず歩き続けて、太陽が南に高くのぼるころ。ふたりは小高い丘の上で、すこし休むことにしました。
アンネが作ってくれたサンドイッチを食べたあと、フェイイェンは背負っていた竹箱を開けました。毎日一度は必ず、楽器の手入れをすることに決めているのです。
「楽譜もたくさんあるのね。見てもいいかしら?」
竹箱の中に入った楽譜の束を、マリアは見つめました。フェイイェンはうなずきます。
マリアは譜面をぱらぱらとめくって、そして一枚の譜面をフェイイェンに見せました。
「この曲はなあに? この譜面だけ、ほかのとすこしちがうのね。なんだか、とても上等な紙みたいだわ……」
黒色のインクで、音符が書かれていました。
「それ、前に風で飛ばされてきたのを、おれが拾ったんだ」
「〈燕になりたい〉。まあ、まるであなたのためにある曲だわ」
譜面の上に書かれた曲名を読みあげて、マリアはつぶやきました。
「ねえ、フェイイェン。この曲、きいてみたいわ。弾いてくれないかしら?」
マリアはまじめな顔つきで、フェイイェンに譜面を差し出しました。青い瞳と黒い瞳がぶつかります。
「ど、どうしようかな。この曲、まだだれの前でも弾いたことないんだ。だから上手く弾けるか、わからないしさ」
「それならなおさら、ききたいわ。前に、あたしが頼めばいつでもなんでも弾いてくれるっていったじゃないの」
ぐ、とフェイイェンはつまりました。たしかにいいました。しかしまさか本当に、それも初めて披露する曲を弾いてほしいといわれるなんて。その場の勢いでそんなことをいってしまったのを、フェイイェンはすこし後悔しました。
マリアはきらきらと瞳をかがやかせて、フェイイェンを見つめています。断れるわけがありません。
「わかった。弾くよ」
フェイイェンはそばの岩に座って、二胡を膝にのせました。
短く息をはき、弦に弓をこすらせます。
静かな音色が、響きました。
どこか悲しくて、ゆったりとした旋律は、大空を思わせます。どこまでも、どこまでも飛んでゆけるような。
飛んだ先になにがあるのか、それはだれにもわからずに。ちいさな体が、風にあおられ傷つくのも構わずに。たとえ、その先に待つものが孤独であろうと、悲哀であろうと、儚さであろうと。燕は翼を広げて、飛んでゆくのです。
(どうしてかしら……この曲をきいていると、ふるえがとまらなくなる。いやなふるえじゃない。まるであたしにも翼があって、どこか遠い、だれもしらないところに、飛んでいってしまいたいと……そんなふうに、思うの)
遥か遠く、空の彼方に憧れ、恋焦がれるように、二胡の旋律は丘を飛んでゆきました。
フェイイェンが、弦から弓をはなしました。静かでありながら、どこか雄大さを思わせる旋律に圧倒されて、マリアはしばらく動けなくなっていました。
フェイイェンが、短く息をはきました。
「マリア。きいてくれて、ありがとうな」
「……フェイイェン。あたしはこの曲をきいて、あなたの想いがほんのすこしだけ、わかった気がしたわ。見知らぬ大地を求めて、どこまでも旅をしたいというあなたの想いが。どうしてだか、曲をきいていたら、あたしもそんな気持ちになったの。きっと、きっとね、人はみんな心のどこかで、燕のようになりたいって思っているのだわ……」
すると――譜面の音符が浮きあがり、光り始めました。ふたりは顔を見合わせ、思わず譜面から遠ざかりました。
「ねえ、これ……あの、尺八で曲を吹いたあとに白い虎が出てきたときと、同じじゃない?」
「じゃあ、ここに虎が出てくるっていうのか? そりゃあ、勘弁してほしいな」
光は、なにかの形をかたどりました。虎よりもずっとちいさな光だったので、ふたりは胸をなでおろしました。
光はやがて、ちいさな鳥になりました。黒色の、湾曲した翼をもった鳥でした。
「もしかして……これが燕?」
フェイイェンはおどろいたまま燕を見つめ、うなずきました。譜面からは音符が消え、ただの紙だけが残されています。いったいなにがどういう理由で、譜面の音符が燕へとかわったというのでしょう。まるでわかりません。
燕はそっと、フェイイェンの肩にとまって鳴きました。
「よく、わからないけれど……とてもあなたになついてるみたいだわ。あの白い虎も、尺八吹きの人のいうことをきいていたみたいだし、もしかしたらこの子も、フェイイェンの助けになってくれるんじゃないかしら」
燕はマリアのことばに返事をするように、もう一度鳴きました。
「そうはいってもなあ……今はとくに、やってほしいことはないよ。それこそ、こいつの背中にのって飛べたら、海も砂漠も山も、ひとっ飛びだけどさ。おれたちのおおきさじゃとても、乗ることなんてできないし」
そうね……とマリアもこまったようにいいました。マリアはなんとなくスカートの裾をはらってみて、そしてポケットの中になにかが入っているのに気がつきました。
手をつっこんで取り出してみると、それはノームからもらった紫色のきのこでした。あのときポケットの中に入れて、ずっとそのままにしていたのです。
「フェイイェン。これを食べてあたしたちがちいさくなれば、その子の背中に乗れるんじゃないかしら」
マリアはきのこの傘をすこし割って、フェイイェンに差し出しました。フェイイェンはいやそうに眉を寄せましたが、しかたがありません。覚悟を決めて、きのこのかけらを口に放りこみました。
途端に、視界が変わりました。目の前にそびえる緑色のゆらめくものが、草の葉だとに気づくのにしばらくかかりました。見上げると、花が傘のようになって影をつくっています。
「なんというか……変な感じだな」
「そう? あたしは、結構好きな景色よ。冒険したくなるわ」
ちいさな燕は、巨大な城かと思えるほどにおおきく見えました。優しい瞳が、ふたりを見下ろしています。
フェイイェンは、燕に話しかけてみました。
「おれたちを乗せて、砂漠の東まで飛んでいってほしいんだ。できるか?」
まかせて、というように燕は鳴きました。そしてふたりが乗りやすいように、体をかたむけてくれました。
おそるおそる、燕の羽毛をつかみました。燕はちっとも痛くないようで、ふたりが乗るまでおとなしく待っています。
「よし、いいぞ。安全運転で頼むぜ」
フェイイェンが声をかけると、燕はその黒い翼を広げ、一気に飛び立ちました。風が、ふたりの髪をなぶります。
燕はふたりを乗せたまま、砂漠の東をめざしてどこまでも飛んでいったのです。