運命が変わるその日まで
月も星も見えない、暗い夜のことでした。
じりじりとせまりくるような闇の中を、アランはひとり、足早に歩いていました。辺りは黒い木々に囲まれ、ときおりそのあいだから、おそろしいうめき声のようなものがきこえてきます。
風が木々をこする音でしょうか。それとも、森にひそむ魔物の声でしょうか。
どちらであろうと、アランにとってはどうでもいいことでした。ただ、目の前に続く闇だけを見ていました。すきとおっているはずだった琥珀色の瞳は、今はどろりとにごってしまっていました。
ぽつりと、アランの頬につめたい粒が当たりました。
(今日も、雨か……)
ところによっては、雨が多く降る季節があるということを、アランはつい最近になって知りました。雨も、緑の濃い森も、砂漠で生きていたアランにとってはめずらしいものだったのです。
けれどそんな美しい景色を見たって、アランの顔に笑みがうかぶことはありませんでした。雨だけは、なんだか心が落ちつくような気がして、すこしだけ好きになれました。
アランは立ち止まり、木の下に座りこみました。
(……腹、へったな)
そう思ったと同時に、自分のお腹が悲鳴をあげました。昨日から、なにも食べていないのです。なにか食べなければ、このままここで死んでしまいます。
(……べつにいいけどさ。死んだって)
アランは手の中にある、闇色に染まったオイルランプを見つめました。人を傷つける力を持つ、魔神のランプです。舟に乗って砂漠をはなれ、海に落ちて――たったひとりで、砂浜に流れついたときにそばに落ちていたものでした。
中には、アランがいだいた絶望や憎しみの気持ちがつまっています。
それがいつかおさえきれなくなって、ランプが壊れたとき――そのときに、魔神の力で死んでしまうつもりでした。
死ねるものなら、今すぐ死んでしまいたいとアランは思っていました。けれど、それすら許されないこともわかっていました。
自分のせいで、大切なひとたちが命を落としたのです。それはたとえ、自分が死んだって許されることではないのです。せめてその罪を背負ったまま、ひとりで苦しみながら生き続けることが、自分が受ける罰なのだとアランは考えていました。
そういうわけで、今ここで空腹で死んでしまうのはすこしばかり不本意であるとアランは思いました。体は動きたくないほどに疲れきっていましたが、それでも無理やり立ちあがりました。
(食い物でも、盗みにいくか)
歩き出したアランのことを、魔物の赤い目が見ています。にらみかえすと、魔物はおびえたように走り去ってゆきました。
絶望の気持ちから生まれる魔神の力は、魔物すら遠ざけるのです。
春の終わりの、優しい雨がアランの髪をぬらしてゆきました。雨だけが、静かにアランを見守っていました。
灯りが、ふたつ見えました。門に掲げられた灯りです。
木枠とレンガでつくられたおおきな屋敷が、門をぬけた先に建っていました。
アランは地図を持っていなかったので、今、自分のいる場所が世界のどの辺りなのか知りません(砂漠ではないということだけは、たしかでしたが)。それに文字を読むのも苦手だったので、屋敷の表札の名前もわかりませんでした。
ひとつだけわかること。それは――この屋敷に住む人が、とても大金持ちであるということです。屋敷の壁にも扉にも、それは美しい装飾がほどこされているし、庭は念入りに手入れをされていて、立派な噴水だってありました。
アランはお金持ちの家にしか盗みに入らないようにしていたので、こりゃあ都合がいいやと心の中でつぶやきました。
部屋の明かりはすべて消えていました。家主は寝静まっているか、ひょっとしたら旅行にでも出かけて、留守にしているなんてこともあるかもしれません。それならなおさら、盗賊にとっては好都合です。
どこからしのびこもうかと、屋敷の裏へとまわってみると、運よく裏口が見つかりました。鍵がかかっていましたが、アランは服の袖から針金を出して、鍵穴に差しこみました。それから一分も経たないうちに、かちりと音が鳴りました。
(ああ。またひとつ、悪いことをした)
今となっては、目をつむっていたって開けることができます。そしてそのたびに、アランはこんなことばかりやっている自分をむなしく思うのでした。
しのび足で、アランは台所を探しました。なんでもいいから食べ物をひとつちょうだいして、さっさとずらかろうという魂胆です。
広い台所がありました。子どもが入れてしまうほどのかまどもあるし、パンを焼くための石窯まであります。思ったとおり、この屋敷の主人はさぞ大金持ちであるにちがいありません。
しかし、ここでこまったことが起きました。肝心の食べ物がなにも見つからないのです。肉も野菜も、それこそ明日の朝に食べるであろうパンも見当たりません。ねずみをとらえる罠にすら、食べ物が仕掛けられていませんでした。
アランはすこしばかりあせりながらも、音を立てぬように引き出しの中や、ずた袋の中まで開けてみました。
ようやく見つけたのは、干からびたちいさなりんごが、たったのひとつ。
たしかに、食べ物ならなんでもいいと思ってはいましたが――これってちょっとあんまりなんじゃないか、とアランは眉をひそめました。
(けっ、しけてんなあ。建物はこんなにも立派なくせに、置いてあるものはりんごがひとつだけなんてさ)
しかたがありません。とにかくこのりんごだけはいただくことにして、一刻も早くこの屋敷からおさらばしようと思いました。
「おまえ、だれだ?」
いきなり、背後から声をかけられました。一気に、全身の血が凍ったような思いがしました。思わずさけびそうになったのを、どうにかこらえます。
ふりかえれば、顔を見られてしまいます。アランはそのまま、全速力で駆け出そうとしました。
しかし駆け出す前に、手をつかまれてしまいました。お腹さえすいていなければ、こんな失態は侵さなかったはずです。アランは唇をかみました。
「やい。おまえ、もしかして泥棒か? おれの家から、なにか盗みにきたのか?」
大人の声ではありませんでした。手をはなしてくれる様子もありません。アランは観念して、声の主の方へとふりむきました。
同い年ぐらいの少年でした。けれどみすぼらしい自分とちがって、立派な生地でできた洋服に身を包んでいます。髪の毛には艶があって、肌は雪のように白いのでした。
アランはびっくりしました。今まで盗みに入ってから、一度もつかまったことはありません。どんなにちいさな生き物の気配にだって、気づかなかったことはなかったのですから。
そんな自分があろうことか、こんな子どもが、こんなにも近くまでやってきていたのに気づかなかったなんて――。
(こいつ、いつからここにいたんだ? いつのまに、おれの後ろにきた? ただでさえ静かだっていうのに、なんでこいつの足音がきこえなかったんだ……)
アランの頭の中は、とまどいとあせりでいっぱいでした。背中に冷や汗が流れます。
自分の手をつかみ続ける少年の手は、とてもつめたいものでした。
「なあ、おしえてくれよ。おまえはだれだ?」
少年は、怒っているわけではなさそうでした。ただ、アランのことを知りたいようでした。
しかたなく、アランは「盗賊」とだけこたえました。
「盗賊ぅ? じゃ、やっぱりなにかを盗みにきたんだな。なにを盗みにきたんだ? 金か宝石か? それとも絵画か? 悪いけど、この家にはなんにもないぜ」
「食い物」
アランがそっけなくこたえると、少年は目をぱちくりとさせました。
「食い物? なんで?」
「腹がへったから」
ほかに理由なんてあるかよ、とアランは心の中でいらだちました。少年はますます目をぱちくりとさせて、それからおかしそうに笑いました。
「なんだよ、夢がないなあ。でも、残念だったな。この家には食べ物もないんだ。いろいろと事情があってさ……」
なおも話し続けようとする少年の手を、アランはふりはらいました。
「なにもないなら、出ていく。じゃあな」
「お、おい! まってくれよ。なにも盗んでなくたって、勝手に入りこんだのは悪いことだろ。今すぐ、ここでさけび声をあげたっていいんだぜ。そうすりゃ、おまえはあっというまにつかまって牢屋行きだぞ」
うっ、とアランはつまりました。少年のいうことは最もです。
たとえつかまったって、かまいやしないと思っていたつもりでした。盗賊とは、そういうものですから。
けれど――牢屋、という少年のことばに体がふるえました。心臓の鼓動が速まるのを感じます。
(……ちくしょう。これ以上、絶望することなんてないと思ってたのに。おれはまだ、牢屋がこわい。せまくてつめたくて、人間を物のように放りこむ牢屋がこわいんだ……)
アランの思いつめたような顔を見て、少年はあわてたようにつけ足しました。
「冗談だよ、おまえをつかまえたりしないってば。食べ物をわけてやるからさ、おれの部屋にきてくれよ」
アランがこたえる前に、少年は再びアランの手をつかんでひっぱりました。
「ええと、たしかここにかくしていたおやつがあったはず……」
暗い部屋の中で、少年は本棚の奥をあさっていました。そのとなりで、アランは部屋を見回しました。ベッドもカーテンも絨毯も、びっくりするほど高級なものでした。もしかしたら、自分はとんでもない家に盗みに入ってしまったのかもしれないとアランは思いました。
「よかった! これは無事だったぜ!」
少年は声をはずませて、アランの前にお菓子の缶を置きました。ふたを開けると、かびやほこりのにおいといっしょに、からからに干からびた焼き菓子が入っていました。
「ああ……やっぱりだめだった。こんな干からびたもの、食えねえよな……」
少年が悲しげに肩を落としたので、アランはしかたなく缶から焼き菓子をつまみました。
「これでいい。腹、へってるから」
「ええ? その、だいじょうぶなのか? お腹、こわさないか?」
「生きるためなら、なんでも食べなきゃいけない。草の根でも、泥水でも。金持ちのおまえには、わからないと思う」
そうこたえたあとに、ちょっといいすぎたかな、とアランは少年の顔を見ました。けれど少年は気にしてないようで、アランに「すげえな!」といいました。
少年はアランが気になったのか、それともただ退屈だったのか、やたらと質問を投げかけてきました。
「なあ、盗賊。おまえは、この近くに住んでるのか?」
「住んでない。家もない」
「じゃ、旅暮らしってことか? ひとりで旅をしているのか? 今まで、どんな景色を見てきたんだ? 一番よかったところはどこ?」
「……ああもう。うるせえなあ」
アランはうんざりとしたような声音で、少年にいいました。それでも少年はめげずに、アランにたずねました。
「おまえも、楽器を弾くのか? ほら、ハープを持ってる……」
少年は、アランが持っていたハープに手をのばしました。アランはとっさに、その手を強くはらいのけました。
「さわるな!」
思わずおおきな声を出してしまって、アランははっとして少年を見つめました。少年はおどろいていましたが、やがて申しわけなさそうに肩をすぼめました。
「ごめん……そのハープ、おまえにとってすごく大切なものなんだな」
アランはため息をついて、立ちあがりました。
「おれ、もう行くから。食い物、助かった」
アランが部屋を出ようとしたそのとき。部屋の外から、声がきこえました。
「おぼっちゃま。どうかされましたか? なにか、声がきこえましたが……」
「やばい! 執事がきちまった」
少年はいそいで扉へと近寄りました。
「なんでもありません。その、夢を見ていたので寝言をいったのだと思います。とにかく、ぼくはなんともありませんから」
今までとはまるでちがう、しおらしい少年の様子にアランは目を丸くしました。扉の外から「では、おやすみなさいませ」と声がきこえて、それきり静かになりました。
「ふう。あぶなかったな!」
少年は再び元気な声でアランにいいました。そしてすこしはずかしそうに、頬をかきました。
「ああいう話しかたをしないと、怒られるんだ。まったく、貴族ってのはめんどうでいやになるぜ」
すると、少年はいきなりアランの顔に、自分の顔を寄せました。
「なあ、おまえは盗賊なんだろ? 食べ物をわけてやったよしみでさ、ちょっとやってほしいことがあるんだけれど」
それをきいて、アランはいやそうに眉をひそめました。いいかげん、この屋敷から出たいのです。どうもここにきてから、調子がよくありません。執事の気配にも気づくことができなかったし、背筋はあいかわらずつめたいままです。
しかしアランがだまっているのをいいことに、少年は話を続けました。
「簡単なことさ。父さんの書斎から、おれの楽器をとってきてほしいんだ。もちろん、父さんに気づかれないように。盗賊のおまえなら楽勝だろ?」
アランは、ますます顔をしかめました。
「そんなの、おまえがやればいいだろ。おまえの父親なんだから」
少年は、顔をふせました。その表情に陰がさしています。
「……おれは、父さんのところに行けないんだ。だから、たのむよ」
少年の声は低く、思いつめたようなものでした。
たしかに、食べ物をわけてもらった恩はあります。それがたとえ、干からびたお菓子であったとしても、です。
「……どんな楽器だよ」
ため息まじりにアランがきくと、少年はぱっと顔をかがやかせました。
「“ガイゲ”さ。知ってるか?」
アランは首をひねりました。それがどんなものなのか、まるで想像がつきません(そもそもアランが知っている楽器は、ハープだけでした)。
「知らない」とアランがこたえると、少年はすこし考えこんで、「絵でかいてみる」と羊皮紙に羽ペンを走らせました。
やがて「できた!」と、少年はしたり顔でアランに羊皮紙をわたしました。
ふらふらとたよりない線でかかれた図形の中心に、棒線が四本。そして、さらにそのとなりに棒線が一本かかれているだけ。お世辞にも、うまい絵だとはいえません。
アランは顔をしかめたまま、少年をにらみました。
「なんだよ、これ。本当にこんなものがあるのか?」
「ばっちりさ! これと同じものを、父さんの書斎から持ってきてくれよ」
たのむ、と少年は両手を顔の前で合わせました。
「書斎は、この屋敷の北側にあるでっかい部屋だぜ。でも父さん、めちゃくちゃこわいからさ、くれぐれも見つからないようにしてくれよな」
少年のことばを思いかえして、アランはちいさく舌打ちをしました。どうして、こんなめんどうなことに巻きこまれてしまったのでしょう。本当なら今ごろ、さっさと屋敷をぬけだして、ひとりで夜の道を歩き続けているはずだったのです。それが、アランの望んでいることのはずでした。
(……もう、だれとも話したくない。だれかと仲良くなったら、そのひとを好きになる。でも、ひとを好きになったって……おれはもう、そのひとのそばにはいられないんだ。おれが、だれかといっしょに生きるなんて……そんなことは、許されない)
このままさよならをいわずに、屋敷をあとにしてしまおうかとも考えました。けれど、あの少年の陰の差した表情を思い出すと、どうしてもそうすることができなかったのです。
ビロードの絨毯が敷かれた廊下を、アランは歩いてゆきました。もちろん、だれにも見つからないように慎重に。
台所の前を通りすぎようとしたときでした。アランは足を止め、物陰に隠れました。人がいます。立派な帽子をかぶった料理人が、大きな鍋の中をかき混ぜていました。
それを見たアランは、目を疑いました。鍋の中には、なにも入っていなかったのです。それどころか、火すらくべられていませんでした。
(あの人、いったいなにをやってるんだ……?)
料理人は青白い顔をして、鍋をかき混ぜていました。いつまでも完成することのないスープを、ひたすらに作り続けているのです。
足元から、一気に冷えてゆくのを感じました。今、目の前で起きていることは、本当に現実なのでしょうか……?
(この屋敷の人たちは、何者なんだ? なにか、おかしい……)
「こんな夜更けに、どちらさまでしょう」
いきなり耳元でささやかれて、アランはとびあがりそうになりました。とっさにふりかえると、白髪をきれいになでつけた男の人が立っています。さっき、部屋の外からきこえた執事の声と同じものでした。
アランがなにもこたえられずにいると、執事の微笑みがさらに濃くなりました。しかし、目は笑っていません。
「もしかして、不法侵入者でしょうか? ならば、即刻退治せねばなりません」
退治、ということばにアランは身構えます。考える前に、口が動いていました。
「ち、ちがいます。友だちです……あいつの」
自分のことばが信じられませんでした。あの少年と友だちになったつもりなんて、全くなかったのです。けれどいってしまった以上、もういいわけはできません。
執事はすこしおどろいたように、目を見開きました。
「あいつ……もしや、おぼっちゃまのことですか?」
アランはうなずきました。すると、執事の表情がふっとおだやかなものになりました。
「左様でございましたか……まさか、おぼっちゃまにご友人がいらっしゃったとは。それをきけただけで、じいはもう思い残すことはございませぬ。ご友人さま、どうかおぼっちゃまの願いをきいてくだされ……」
そういいのこして、執事は立ち去ってしまいました。
(なんだったんだ……?)
アランはただ、執事の背中を見つめることしかできませんでした。
北へと向かうほどに、寒さがひどいものになってゆきました。雨が降っているとはいえ、季節は春の終わり。それに家の中だというのに、床も壁も氷のようにつめたいのです。
書斎の前にたどりつきました。アランは、扉に耳を寄せます。なにもきこえません。
(だれもいないのか? とにかく、さっさと終わらせよう)
扉に鍵はかかっていませんでした。そっと扉を開けたアランは、目を見張りました。部屋中に本棚が置かれています。どの本棚にも、本が隙間なくしきつめられています。
本が高価なものであることを、アランは知っていました。いつだったか、ほかの屋敷に盗みに入ったときも本がありました。けれど、こんなにもたくさんの本を見るのははじめてです。
アランはため息をつきました。こんなにも広い部屋の中から、楽器を探さねばならないのです。それも、どんな形かもわからない楽器を。
本棚と本棚のあいだは、両手を広げれば本棚に手が届いてしまうほどのせまい通路でした。
もしも、ここでだれかと鉢合わせてしまったら……それも、二人組ではさみ撃ちでもされてしまったら、絶対に逃げることなどできないとアランは思いました。万が一つかまったら、あの少年はちゃんとアランの味方になってくれるのでしょうか。
(あいつ、父親がこわいっていってたな。だから、この部屋にこられないのか? でも、いくらこわいっていったって、自分の本当の父親なんだろ? そんなことってあるのかよ)
両親のいないアランには、わからないことでした。考えていてもしかたありません。アランはさっさと、本棚のあいだを通りぬけました。
立派な机がありました。積み上げられた本のほかに、見たことのない機械(アランは知りませんでしたが、タイプライターでした)が置かれています。しかし、楽器らしいものはありませんでした。
あせる気持ちをおさえながら、机の周りを探してみました。見つかりません。
念のため、本棚も一段ずつ目で追ってゆきました。やっぱり、見つかりません。
(もしかして、どこかに隠してるのか? でも、こんな本だらけの場所に、どうやって……)
そう考えたとき、アランはかつてともに暮らしていた盗賊の話を思い出しました――。
「これは、おれがきいた話なんだが。どこかの国の貴族さまってのは、住んでいる屋敷に隠し部屋があるらしいぜ」
「隠し部屋だあ? 地面の下に部屋があるってことか?」
「いいや。扉の代わりに本棚とか食器棚とか、はたまた絵画を飾って、入り口を隠しているそうなんだ。そこには金貨や宝石や、屋敷の主人が大切にしているものがざくざくと……ってやつよ」
「へえ! でも、どうしてそれをおまえが知っているんだ?」
「その泥棒本人にきいたからさ。隠したって、結局見つけられたら意味はねえってことだな」
「そりゃあ、おもしれえ話だ。なあ、アランもきいてただろ? おまえもいつか独り立ちして、砂漠を出てゆくことがあったら、そんな屋敷にしのびこむなんてこともあるかもしれねえな……」
盗賊たちのことを思い出して、アランの胸はいたみました。話しかけてくれた盗賊たちも、今はもうきっと、この世にいないのです……。
アランは首をふり、本棚をひとつずつたしかめてみました。
するとどうでしょう。本棚がひとつ、横に動かせるようになっていました。その先には通路があって、小部屋へと通じていたのです。
小部屋にはちいさなテーブルがたったひとつ。そのうえに、木でできた“ガイゲ”がありました。それが楽器だとわかったのは、楽器に張られた四本の弦が、持っていたハープとよく似ていたからでした。
アランは、少年がかいた絵と本物を見比べました。
(これの、どこがばっちり同じなんだ? 全然ちがうじゃねえか)
心の中で、アランは少年に文句をいいました。とにかく、これを少年に届ければ自分の役目は終わりです。アランは楽器に手をのばしました。
そのとき、背筋がぞっとつめたくなるのを感じました。ふりかえると、真っ黒な霧の塊が渦巻いています。その霧から、激しい憎悪のような気配を、アランは感じました。
(あれは、魔物か? どうして、屋敷の中に……)
アランはじっと黒い霧をにらみました。魔物なら、恐れる必要はないはずです。魔神のランプがあれば、魔物の方が逃げてゆくのですから。
しかし、黒い霧はアランをとらえると、いきなりおそいかかってきました。アランはすばやく楽器を手にして、本棚のあいだを駆けぬけました。
黒い霧は追いかけてきます。アランのことを、まったく恐れていないようでした。
(おれのランプ以上に、強い憎しみを持っているってことか?)
いずれにせよ、このままでは屋敷の人たちが危険にさらされてしまいます。アランは持ち前の足の速さで、屋敷の外へ霧をおびきだすことにしました。
書斎を飛び出し、アランは裏口へと走りました。しかし、扉が開きません。びっくりして、鍵穴をたしかめてみました。何度見ても、鍵は開いていました。そもそも、自分で鍵を開けてここから入ってきたのです。それなのに、扉はびくとも動かないのです。
まるで、見えない力によって閉ざされているようでした。
(ああ、もう! この屋敷は、いったいどうなってやがるんだ!)
アランの背後に、黒い霧がせまっていました。それはやがて人の形になって、アランの持つ楽器に手をのばしました。
――それを、よこせ。泥棒め。
おぞましい声がきこえました。アランは楽器を背中にかばって、霧からはなれました。
「だめだ。これは、持ち主にかえす。そうたのまれた」
低い声で、アランは霧にこたえました。すると霧の形が一瞬、くずれました。
――持ち主? それの、持ち主は……わたしの、息子……。
「息子? あんた、あいつの父親なのか?」
アランは目を見開き、霧に問いかけました。霧は迷うように、その場でゆらめいています。
――わたしのせいだ。わたしのせいで、妻も、息子の命も……!
とつぜん、霧が激しくうごめき、巨大な人の形になりました。
――憎い、憎い。わたしは、わたしが憎い。わたしのせいで、なにもかも失った。家も、財産も、けんめいに働いてくれた使用人たちも、そして大切な家族の命も。殺してやりたい。なにもかも。わたしはもう、魔物だ。自分を、とめることができない。自分のことも、生きる者も、なにもかも殺してやりたい。
おぞましい声は、頭の中にまで響くようでした。
「おい。あんた、もしかして……」
いいかけたアランの首を、巨大な手がすばやくつかみました。その手に力がこもってゆきます。息ができなくなって、アランは顔をゆがめました。体から、力がぬけてゆきました。
アランはじっと、かわりはてた少年の父親を見つめました。首をしめる手から、憎しみの気持ちが伝わってくるようでした。
(……この人も、おれと同じだ。自分のことが憎くてたまらないんだ。きっと、自分のせいで大切な人が……)
「盗賊っ!」
するどいさけび声がきこえました。それにおどろいたのか、アランの首をつかんでいた手から力がぬけました。アランは咳こみながら、とっさにその手をふりはらいました。
少年が、アランを守るように立ちふさがりました。アランが楽器を差し出すと、少年はうれしそうに微笑んで、宝物をあつかうように楽器を受け取りました。
「ありがとう……おれの願いをきいてくれて」
少年はアランにお礼をいうと、父親を見あげました。黒い霧は再び、迷うようにゆれました。
――ああ。わたしの、大切な息子よ。わたしのせいで、おまえは……。
「父さん。おれも母さんも、父さんのせいだなんて思っていないよ。しょうがなかったんだ。これが、おれたちの運命だったんだ。だからもう、休もう。おれも、いっしょにいくからさ。だから、いつまでもこんなことをしてちゃだめだよ」
少年は、やさしく語りかけるようにいいました。
そして、少年は楽器を奏でました。
それは思わずききほれてしまうほどの、美しい旋律でした。
――その、曲は……母さんが、好きだった……。
そのとき、天から光が差しこみました。天の光は、黒い霧を包むように照らしました。
アランは、黒い霧から男の人の姿が現れたのを見ました。すると、光の中から女の人が降りてきたのです。ふたりは手を取り合って、ともに天へとのぼってゆきました。
黒い霧はやがて薄くなって、ついには消えてなくなりました。
そして――執事も、料理人も、使用人たちも、みんな少年の奏でる旋律をきき、そしてねむるように、天へとのぼっていったのです。
アランと少年は、屋敷の庭にある噴水に腰かけていました。噴き出す水しぶきの音が、静かな庭にきこえていました。雨はやみ、空は夜明けの紫色に染まっていました。
「おまえ、死んでるのか」
アランは、少年にといかけました。
少年は楽器を大事そうにだきしめたまま、うなずきました。
「まあな。おれだけじゃないよ。執事も、使用人も、父さんも……もう、昔の話さ。おまえが生まれるよりも、ずっと昔のことだ。この屋敷が、燃えちゃってさ。そのときにな」
アランは、だまったまま少年の話をきいていました。どうして屋敷が燃えてしまったのか……それをきいていいのか、わかりませんでした。
なので、「でも、屋敷はこうして、ちゃんと残ってるじゃないか」といいました。
「幻だよ。おれたちのような、天にのぼれず残ってしまったやつらが魅せた幻……いっておくけど、これが見えているおまえの方が変わっているんだからな。ふつうの生きている人間には、あとかたもなく燃えつきた屋敷の跡が見えているはずさ」
アランは、少年のことばが信じられませんでした。屋敷が本物でないことも、そして目の前にいる少年が、もう生きていないことも。
「燃え残った宝石とか金貨とかはさ、ここを通りがかったやつらが勝手に持っていった。だから、ここには宝石も金もないって最初にいったんだ。そんな中で、木でつくられたこのガイゲが燃え残って、しかもだれにも持っていかれなかったのは奇跡だよ。もしかしたら、父さんがずっと守ってくれてたのかもな……」
そうつぶやいて、少年は空を見あげました。空はすこしずつ、東の方から明るくなってゆきます。
少年は、笑いながらいいました。
「死んでからこうして、生きている人間と話せたのは初めてだぜ。おまえ、なにかふしぎな力でもあるんじゃないか? 死んだ人と話せるとか、霊の気配を感じとれるとかさ」
アランは顔をしかめたまま、なにもこたえませんでした。
少年は、自分に起きたできごとを話しました。
「その昔、父さんはこのへんの土地をおさめている領主だった。自分でいうのもなんだけど、裕福な暮らしだったよ。でもある日、母さんが病気になった。重い病気だ。父さんは、母さんを助けるためには金貨を何枚でも出すっていってた。
で、ひとりの医者が薬を持ってきた。万病に効く薬だから、貴重だしとても高価だって。父さんは惜しみなく金貨を出して、その薬を買った。これで母さんは助かるんだって、家のみんなで喜んだよ。
でもな、それは薬じゃなかったんだ。そいつは、本当は医者なんかじゃなくて、詐欺師だったんだよ。薬はその詐欺師が適当に、その辺の草を混ぜてつくっただけ。それに、人にはよくないものが混ざってたんだろうな。その薬をのんで、母さんは死んじゃった」
そこまで話して、少年は背中を丸めました。
「母さんが死んでから……父さんは人が変わってしまった。人を信じなくなって、だれとも話をしなくなった。おれはすこしでも元気になってほしくて、楽器を弾いたんだ。でも『母さんの好きだった曲を弾くな』って楽器を取りあげられた。そのときからずっと、楽器は弾いてない。屋敷から外へ出ることさえ、ゆるされなかった。だから友だちなんて、ひとりもできやしなかったよ。
父さんは執事や使用人たちや、この土地に住んでいた人たちにも、ひどい仕打ちをするようになった。すぐにどなったり、金貨を何枚も納めるように命令した。そんな父さんが、許せなかったんだと思う。ある日の夜、だれかに屋敷に火をつけられた。そして、屋敷は燃えて――おれの人生は、あっけなく幕をとじたってわけさ」
少年はあっさりとそういいました。ふしぎと、悲しそうではありませんでした。あきらめともちがう、自分の運命を受け入れているような、そんな瞳をしていました。
「でも、やっぱり心残りがあったんだろうな。おれたちはこうして、霊となって長いことさまよってた。執事や料理人の姿を見たか? ああやって死んでからもずっと、自分の仕事を終えようと屋敷をうろうろしていたんだ。
でも、父さんは……自分のせいで母さんも、みんなも死んだことをずっと後悔して、自分を責め続けて……あんなふうになった。魔物なのかな? 怨霊、みたいなものなのかもしれない。憎しみの力が強すぎて、体のないおれたちはだれも父さんの部屋に行くことができなかったんだ。だからずっと、どうにかしてくれる生きた人間と話せる機会を待ってたんだけど……でも、おまえを危険な目に合わせちゃった。ごめんな……」
少年は悲しげに顔をふせて、アランに謝りました。アランは、首をふりました。
「べつにいい。おまえも、おまえの父親も、すこしでも救われたのなら、それでいいと思う」
アランはちいさく、こたえました。あの父親は、ずっと自分を責め続けたから、ようやくねむることができるのです。ひとりで苦しみ続けて、あんな姿になって、罪を償ったから許されたのです。
でも、自分はそうじゃありません。これからもずっと、ランプに絶望がいっぱいになるまで、生き続けるのです。生き続けなければならないのです。
アランは、少年にたずねました。
「……おまえ、父親のこと、きらいにならなかったのか? なんで、父親を助けようとしたんだよ」
少年は、こまったように笑いました。
「そうだなあ。たしかに、みんなにひどいことをする父さんはいやだった。悲しかったよ。でも……おれは、優しかったころの父さんを知ってる。本当の父さんを知ってるから。人間、生きていればどうにもできないことだってあるだろ? 父さんもきっと、そうだったんだと思う。だから、きらいになんてなれなかったんだ」
そうこたえたあと、今度は少年がアランにたずねました。
「なあ、盗賊……おまえ、死にたいのか?」
アランは目を見開き、少年を見つめかえしました。
「おまえが、父さんにおそわれたときさ。全然、こわがっていなかっただろ。それになんだか、すべてをあきらめているように見えたんだ」
「それは……」
アランはうつむきました。死んだ人の前で、それも本来ならば死ぬべきはずではなかった人の前で、自分の気持ちをいっていいのかわかりませんでした。
すると、少年はすこし考えこんだあと、明るい声でいいました。
「じゃあ、死んだ人間からひとつ、預言をしてやるよ。いいか? もう一度、季節がめぐるころ。おまえの運命が変わる。だからとりあえず、それまでは生きのびろ。今、死んでしまうのはもったいないぜ」
アランは顔をあげ、いぶかしげな表情で少年を見ました。
「……適当なこと、いうな。そんなこと、どうしておまえにわかるんだよ」
「死んだ人間っていうのは、ときどきふしぎな力を持つものだぜ。まあ、信じなくってもいいけどさ、あくまで預言なんだし。でも……」
そこまでいいかけると、少年はアランに白い歯を見せて笑いました。
「おれは、おまえがここにきてくれてよかったって思ってる。こまっていたおれの願いをかなえてくれた。きっと、こまってるやつってのは、ほかにもごまんといるだろ? 生きてる死んでる関係なくさ。そういうやつがいたら、助けてやってくれよ。そうしてゆくうちに、いつか自分のことも許せるようになるかもしれない」
「……」
だまっているアランに、少年はかかえていた楽器を見せました。
「さっきおれが弾いた曲はさ、母さんが好きだった曲なんだけれど。あれは、許しの曲っていわれているんだ。
昔、悪いことをしたやつが海におぼれそうになってさ。これが自分がやったことの報いなんだって、そいつは思った。でもさ、奇跡的に命拾いしたんだ。助かったそいつは神さまに感謝したと同時に、自分が今までやってきたことを深く悔やんだ。そのときに作った曲なんだってさ。この曲には、神さまへの感謝の気持ちと、自分の行いへの後悔の気持ちがこめられてる。
なにがいいたいかっていうとだな……どんな人だって、ちゃんと罪を償えば、きっといつかは許される日がくるんじゃないかなっておれは思うんだ」
朝日が、顔を出しました。また、新たな一日が始まるのです。
少年の体は、すこしずつ透けてゆきました。
「おまえを救うのは、神さまじゃないかもしれない。けれど必ず、おまえに手をさしのべてくれる人が現れる。だからさ、おれたちが次に会うのは、ずっとずっと先にしような!」
少年は噴水をけって、空へとうかびあがりました。そして朝日の方へと飛んでゆきながら、消えてゆきました。うれしそうに、楽器を弾きながら。
アランは、はっと目を開きました。いつのまにか、ねむっていたのです。いったい、いつからねむっていたのでしょう――。
アランはひとり、噴水に腰かけていました。噴水はところどころ欠けていて、植物のつるがからみついていました。もう長いこと、水は出ていないようでした。
あの立派な屋敷は、どこにもありませんでした。燃え残ったレンガや木枠にも、つるがからみついています。
庭だったところには、死んだ人たちを弔うように、花がいくつも咲いていました。花についた朝露が照らされて、きらきらとかがやいていました。
(全部、夢だったのか……?)
アランは立ちあがり、屋敷のあった跡を歩いてみました。なにかが、足に当たりました。
あの少年がくれた、焼き菓子の缶でした。けれど夜に見たときよりもずっとぼろぼろで、中身はからっぽでした。
夢じゃなかったのだろうと、アランは思いました。お菓子の缶を花のそばに置いて、そしてほんのすこしのあいだ、天に祈りました。
そして、雨のやんだ森の中を、ひとり歩き出しました。少年の楽器の旋律が、とおくにきこえたような気がしました。
それから、いくつかの町や村で、貧しい人たちに食べ物を分ける盗賊のうわさが広まるようになりました。盗まれた貴族たちが悔しがる一方、その食べ物で命拾いした人々は、その盗賊に感謝をしました。
けれどだれも、その盗賊の姿を見ることはできませんでした。
そして――季節がめぐり、ある春の終わりの日のことです。
「あれ? あなた、ローナのことを知っているの? もしかして、前にどこかで会ったことある?」
ちいさな女の子が、アランの顔をのぞきこみました。アランも、その女の子を見つめかえします。きれいな青い髪、人間とはちがうとがった耳、そしてエメラルドのようにかがやく瞳――。
アランが心から大切に想っている女の子と、とてもよく似た女の子でした。
この出会いが、アランの運命を変えることになるのですが――それに本人が気がつくのは、もうすこし先のことです。