×

神さまと少女

 ここは、北の大地に建つちいさな女子修道院。わたしはそこで暮らしている、二十歳をむかえたばかりの修道女でございます。

 幼いころは、東の方で母とともに暮らしておりました。しかし母が病で亡くなってからは、明日の食べ物にも苦しむ日々。家をなくし、身寄りもなく、途方に暮れながらわたしは町をさまよい歩いておりました。

 そんなとき、偶然(今思えば、神さまのお導きでありましょう)その町の教会にいらしていた修道院長さまが、手をさしのべてくださったのです。そしてそのまま、この修道院に引き取られることになりました。今、わたしの命があるのは、修道院長さまのおかげなのでございます。

 修道院では、ほとんどの時間を神さまへ祈りを捧げて過ごします。世をはなれ、神さまへの信仰を第一にするこの生活は、わたしたちがこの世を去ったときに、神さまの御許にゆくための巡礼の旅なのだとか。規律は厳しいもので、基本的には食べるものや着るものは定められ、院の外へと出ることも禁じられております。

 ここにきた当初は、息がつまるような思いをしておりました。この生活に意味があるのかどうかすら、わかりませんでした。

 わたしたちの祈りは、果たして本当に神さまへと届いているのでしょうか。それならばなぜ、神さまはわたしたちに悲しみや苦しみをあたえるのでしょう? 

 なぜ、人はときに自ら、つらい道を選び進んでゆくのでしょう?

 修道院の生活はあまりに静かでおだやかなので、ときにこたえの出ない疑問を、こうして延々と考えてしまうことがあるのです。

 とはいえ、祈りを捧げる生活といっても、もちろんやることはそれだけではありません。自給自足の生活ですので、修道院内にある畑の水やりをしたり、洗濯をしたり、布団を干したり、掃除をしたり。当番制で、皆の食事も作ります。特にわたしのような若い修道女は、井戸から水をくんでくるような力仕事を率先して行います。そんなことをしているうちに、あっというまにお日さまは空高くのぼってゆくのです。

 お祈りの時間が終わったら、教典を読み、聖歌をうたい、再び畑仕事や、裁縫などをして働き、そして夕食をいただき、ねむるまえにもう一度、祈りを捧げます。そして、お日さまがしずむとともにねむりにつき、お日さまがのぼるまえに起きるのです。

 こうしてふりかえってみると、修道女というものは、意外とせわしなく動いているものなのですよ。

 さて、ある春の日のことです。春といっても、暦上が春なだけであって、この北の大地ではまだまだ冬景色が続いています。

 わたしは門の前につもった雪を、けんめいにかき出しているところでした。雪が固まるまえにかき出さなくては、あとで大変な思いをすることになりますからね。

 すると、ひとりのちいさな少女が門の前にやってきました。

 歳は、八歳ぐらいでしょうか。金色の長い髪をなびかせて、ガラスのように透きとおった水色の瞳をした子でした。両手にかかえるほどの、おおきなクマのぬいぐるみを持っています。そして、たいそう高級な生地でできた服を着ておりました。

 少女はものめずらしそうな顔をしながら、門を見あげています。こんな森の中に建物があるので、びっくりしたのでしょうか。

 しかし、びっくりするのはこちらの方です。だって、こんな森の中を少女がひとりで歩いているなんておかしいじゃありませんか。

 それに、森の奥には魔物もいるとききます。魔物がこの少女をおそう姿を想像しただけで、わたしはめまいがしました。

 とにかく、その子を放っておくわけにはいきません。わたしは少女に「こんにちは」と声をかけてみました。

 少女は桃色の頬をぷくぷくとさせて、にっこり笑顔で「こんにちは!」と元気よくいいました。まあ、なんてかわいらしいのでしょう! わたしは、一瞬でその子の笑顔の虜になってしまいました。思わず、口元がにやけてしまったほどです。

 わたしがなにかたずねるまえに、少女のほうからわたしにたずねてきました。

「ねえねえ。このへんで、妖精をみなかった?」

 妖精? 妖精というと、あの言い伝えに登場する、願いをかなえてくれる妖精のことでしょうか? わたしも幼いころ、母から妖精のお話をきいたことがありました。

 けれどそれは、あくまで言い伝えの中だけの存在で、だれも姿を見たことはなかったはずです。わたしも、もちろん妖精が本当にいたらいいなとは思いますが、いわゆる神さまと似たような、人間の前には現れない崇高なる生き物だと思っておりました。それこそ、願いをかなえてくれる生き物なんて、簡単に会えるほうがふしぎでしょう。

「残念ですが、わたしは見たことありません」とこたえると、少女はつまらなそうに肩を落としました。髪の色と同じ、金色の眉が八の字になってしまっています。ちょっとかわいそうになってしまいました。

「そうなの。それじゃあ、ここはどこ?」

「ここは修道院でございます。神さまに祈りを捧げる者たちが、寝食をともにする場所でございますよ」

「ふうん」

 少女はこたえたあと、「いけない。ていねいな話しかたをしなくちゃ!」とつぶやきました。それと同時に、少女のお腹がなりました。

 わたしは「なにか食べられますか?」と少女にたずねました。だれであろうと、どんなときであろうと、お腹をすかせた者には食べ物をわけあたえるというのが神さまの教えです。

 少女は「うれしい! ありがとう」と、さらににこにこ笑顔でうなずきました。

「その前に、きかなければならないことがございます。あなたのおうちはどこですか? ご両親は?」

「おうちは、あっちよ」と少女は北の方角を指さしました。ここよりさらに北に、町か村があるのでしょうか。

「お父さまとお母さまもいるわ。でも、ふたりともいつもいそがしいの。だから、エミリア……じゃなくて、ええと、わたくしはお父さまとお母さまにごめいわくをおかけしないよう、こうしてクマちゃんとふたりで遊んでいるのですわ。今日は、妖精を探していたの」

 けんめいに話す、舌足らずなことばづかいがますますかわいらしくて、わたしはさっきから笑みをおさえることができませんでした。まだ日も明るいことですし、すこしぐらいなら、この子の相手をしても問題ないでしょう。

 わたしは、少女に修道院で焼いたパンをさしあげました。小麦粉を練っただけの簡素なパンではありますが、少女はよろこんでパンを口に運んでおりました。

 しかしおどろいたのは、そのお行儀のよさです。まるで子どもとは思えない、美しい仕草でパンを食べたのです。もしかしたらこの子は、どこかの名家の生まれのお嬢さまなのかもしれません。それならばなおさら、こんな森の中にひとりでやってくるのはおかしいような気もしますが……。

「いつも、こうしておうちの外に出て遊んでおられるのですか?」

「そうよ。でも、先生は遊んでばかりいると立派なおひめさまになれませんよって、すぐにおこるの。いやになっちゃう」

 少女は、おおげさにため息をついてみせました。おひめさま? 将来は王子さまと結婚するのが、この子の夢なのでしょうか。ふふ、やはり女の子というものはみんな、一度はおひめさまに憧れるものなのでしょうね。わたしも、幼いころは……いいえ、なんでもありません。わすれてくださいな。

「でも、森の奥には魔物がいるといわれています。ひとりで遊びに出かけたら、ご両親が心配してしまいますよ」

「魔物なんてこわくないもん。それに、ひとりじゃないわ。ほら見て。この子、エミリアのお友だち。お誕生日にもらった、宝物なのよ」

 少女は得意げな顔をしながら、クマのぬいぐるみをわたしに見せてくれました。黒くてつぶらな瞳が、わたしを見つめていました。

「でも、ここまで来たのは今日がはじめて。こんなところに、こんなにもすてきなおうちがあるなんて知らなかったわ」

「気にいっていただけたようで、なによりです。わたしも、まさかこんなにもかわいらしいお客さまをおもてなしできるとは思ってもいませんでした」

 ことばのとおり、わたしの心はとてもはずんでおりました。こうして見知らぬ人との出会いは、修道院での生活の中ではめったに起こらないことですから。

 少女はパンを食べ終えると、立ちあがってわたしの顔をのぞきこみました。

「わたくし、もっとこのおうちのことを知りたいわ。案内してくださらないかしら?」

 わたしはこまってしまいました。もちろん案内するのはかまわないのですが、あまりおそくなってしまうと、この子が家に帰れなくなってしまいます。ご両親も心配していることでしょう。

 けれど少女は、すんだ水色の瞳をさらにきらきらとさせて、「お願い!」とわたしにたのんでくるではありませんか。そんな瞳を見てしまったあとに、どうすれば断ることができましょう?

 わたしがしかたなく、「すこしだけですよ」とこたえると、少女はうれしそうにその場で飛び跳ねました。本当のことをいうと、わたしのほうが、もうすこしこの少女といっしょにいたかったんですけれどね。

 わたしはいつもお祈りをしている礼拝堂や、黙祷をするための小部屋や、教典を読むための図書室を案内しました。

 少女は礼拝堂に、特に興味を示したようでした。

「ここは、とても静かだわ。窓からさしこむ光がきれい……」

「そうですね。昔の悲しいできごとや、つらいできごとを思い出したときは、ここにやってくると、心が落ちつきます」

「悲しいのやつらいのって、エミリアはすごくいや。毎日、楽しいことばかりならいいのに。どうして、悲しいことが起こるのかしら」

「悲しみは、神さまがわたしたちにおあたえになる試練なのでございます。人間が成長するには、厳しい試練が必要なのだと神さまはお考えなのです」

「ふうん……神さまって、ちょっぴりいじわるね」

 少女はそういって、不満げに頬をふくらませておりました。

 それから、修道院内にある畑を案内しました。ちょうど、ほかの修道女たちが雪をかき分け、畑仕事をしているところでした。

「みんな、なにをしているの?」

「種まきでございます」

「種まき?」

「はい。春に種をまき、育ったものを秋に収穫し、冬にそなえる……それが、わたしたちの生活でございます。わたしたちだけでなく、人々は皆そうやって、作物とともに生きているのですよ」

 少女は、修道女たちの姿をじっと見つめていました。

「ねえねえ。手伝ってもいいかしら?」

「ええ? そんなことをしたら、お召し物がよごれてしまいますよ」

「いいの。パンをくれたお礼に、手伝わせてほしいの」

 子どものいたいけなまなざしというのは、どうしてこんなにも力があるのでしょう。わたしは結局、また断ることができませんでした。しかたがありません、この子のご両親には、わたしがかわりに怒られることにいたしましょう。

 きれいな服が汚れてしまうのもかまわずに、少女はけんめいに種をまきました。ほかの修道女たちも、最初はおどろいていましたが、すぐにその愛しい姿に釘付けになりました。

 少女はあっというまに人気者となり、皆に囲まれてしまいました。さっきまで、あの子はわたしのとなりに立っていたというのに……。ああ神さま、すこし悔しい気持ちがするのは、気のせいでしょうか? 

 少女は白い手をすっかり土まみれにして、額の汗をふきました。

「エミリアがいつも食べているものは、こうやって作られているのね。ちっとも、知らなかったわ」

「労働は、人間の行いにおいて大切なものでございます。今日ここであなたが種をまいたことは、決してむだにはならないでしょう」

 少女はわたしを見あげて、花が咲いたように笑いました。

 気がつけば、すっかり日がかたむいてしまっていました。しまった、とわたしは思いました。このまま、この子を帰すわけにはなりません。夜になったら、いよいよ魔物におそわれてしまいます。

 すると、とおくから馬の蹄の音と、車輪のまわる音がきこえてきました。馬車がやってきたのです。

 馬車はやがて、修道院の前で止まりました。

「エミリア! まったく、心配したんだぞ」

 馬車の中から、少女と同じ髪色をした男の人が降りてきました。

「お父さま! どうして、エミリアがここにいることがわかったの?」

「おまえの足跡をたどってきたんだよ。今日は雪が降らなかったからね」

 少女が男の人の胸の中にとびこむと、その人はそっと、けれど強く強く、少女をだきしめました。

 そして、わたしにこまったように微笑みました。

「娘がいろいろとご迷惑をおかけしたようで、申しわけありません。このお礼はいずれさせいただきますので、今日はこれで失礼いたします」

「ばいばい。エミリアね、今日のできごと、絶対にわすれないわ」

「はい。わたしも、わすれません。どうかお気をつけて。あなたがたに、神さまのご加護があらんことを」

 わたしたちは別れのことばを告げて、そうして馬車は北の方へと帰ってゆきました。

 わたしは、いつまでもかれらを見送っていました。

 馬車の姿が見えなくなってから、今日のできごとはみんな夢だったのかしら、と思いました。だって、こんな北のはずれにある修道院に、とつぜん天使さまのようにかわいらしい少女がやってくるなんて、信じられないでしょう?

 けれど夢ではない証拠に、わたしはその晩、修道院長さまから、よその娘さんを日が暮れるまでここにいさせてしまったことについて、すこしだけお小言をもらいました。けれどわたしは、なんだかずっと楽しい気分でした。あの子にいったとおり、わたしはあの子のことを決してわすれないでしょう。

 それからしばらくして、修道院に多額の寄付金が送られてきました。見たこともない金額です。送り主の名前はありませんでしたが、あの親子にちがいないとわたしは思いました。

 ……まさかあの子は本当に、どこかの国のおひめさまだったのでしょうか?

 それから月日は流れ――わたしは、三十五歳になりました。

 この歳の女性の多くは、ふつうなら結婚をして子を産み、家庭を築きあげているころでしょう。しかし修道士や修道女というものは、神さまに仕える身ですので、生涯をかけて独身をつらぬくものなのでございます。

 このころになると、わたしは修道院の生活にもすっかりなじんでおりました。毎日がおだやかに、そして静かに過ぎてゆくのも悪くはないものです。

 とはいえ、ときには外の生活や、修道女たち以外の人々が恋しくなることもございます。ここが教会ならば、旅のあいだにおとずれる人や、はたまた結婚式をあげる夫婦を見かけることもできるのですが……修道院は、あくまで神さまに仕える者が、世をはなれて生活するための場所。お客さまなんてそうそうやってくることはなく、実際わたしが知るかぎり、この修道院にやってきたのはいつかのあの少女だけでした。

 あの少女のことはわすれもしません。あの子も、今ごろは年ごろの娘になっているはずです。もしかしたら、だれかと恋に落ちているころかもしれませんね。

 そんなことを考えていた、ある秋の日のことでした。

 わたしは、門の前につもった落ち葉をほうきで掃いていました。集めた落ち葉は、畑の肥料として使います。これほど多く集まれば、よい肥料になるでしょう。

 わたしがせっせと落ち葉の山をつくっていると、目の前を若い青年が通りかかりました。金色の髪を短く整え、立派な長い槍を背負っておりました。わたしは男性を見かけることはほとんどなかったので、思わずどきどきしてしまいました。

 しかし、すぐにそんな気持ちは吹き飛びました。青年の腕からは、血がたくさん流れていたのです。

 わたしはほうきを放り出し、いそいで青年の元へと駆け寄りました。青年はすこしおどろいていましたが、わたしは構わずにけがの具合をたずねました。

 けれど青年は笑って、「これくらい、なんともないですよ」というのです。

 そういっているあいだにも、血はさらに流れ続けておりました。ああ、見ているだけでこっちが痛々しい! こんなけがが、なんともないわけがありません!

 わたしが「すぐに治療薬を持ってきますので、ここでお待ちください」というと、修道院長さまがやってきました。

 そして「その方を中に入れてさしあげて。すぐにけがの治療を」といいました。

 わたしは、すこしおどろいて修道院長さまを見上げました。女子修道院は、本来ならば男性は禁足の場でしたから。司祭さまならばともかく、神さまに仕えぬ男性を修道院に入れるのは異例のできごとでした。

 修道院長さまはまじめな顔をくずさずに、「助けられる命は、助けなければ。それが、いかなる約束ごとを破ることになろうとも。神さまはきっと、お許しになります」といいました。

 わたしは、青年を医務室へと連れてゆきました。青年の腕の傷は、思っていた以上に深いものでした。平気な顔をされているのがふしぎなぐらいです。

 よく見てみると、ほかにも古傷がいくつも残っておりました。どの傷も、ろくに治療もされていないのが、一目でわかりました。きちんと治療をすれば、傷痕だって残らなかったでしょうに……。

 わたしが腕の治療をほどこしているのを、青年はまじまじと見つめておりました。

「とても手際がいいんですね。まるで魔法がかかったかのように、みるみるうちに痛みが引いてゆきます」

「わたしたちは、修道院を出ることがありませんから。ある程度のことは、自分でできるようにならなければならないのです。けがや病の治療も、そのひとつです」

「それにしたって、あなたのその力はすばらしい。そこらの医者より、よほど優秀だとわたしは思いますよ。どこかできいた話だと、医者だと偽ってでたらめな薬を売る、詐欺師のような輩だっているらしいですから」

「まあ……人をだますなんて、最もよくない行いです。そんなひどい方がいらっしゃるなんて」

 わたしが眉をひそめると、青年もうなずきました。

「そんなやつは、このわたしがこてんぱんにしてやりますとも。詐欺師なんかより、あなたの名の方がよほど世に広まるべきだ!」

 青年の力強いことばに、わたしは頬が熱くなるのを感じました。賞賛のことばをかけられ、うかれているのが自分でもわかります。いけません、修道女というものは、いついかなるときにも謙虚でいなければ。

 わたしは、話題をかえることにしました。

「いったい、どうしてこんなけがを?」

「この近くで、魔物が馬車をおそっているのを見かけたんです。でも、安心してください。馬車も乗っていた人も無事だし、魔物はわたしがたおしましたから!」

 と、青年はなんともさわやかな笑顔でこたえました。親指までぐっとつき立てて。

 その笑顔を見て、様子を見にきた若い修道女たちが黄色い声をあげました。修道院長さま、やはりこの青年を院内に入れるべきではなかったのでは……?

「こんなにも深いけがを負ったというのに、なぜ助けを求めなかったのです? それこそ、いっしょに馬車に乗れば、町のお医者さまにすぐに診てもらえたでしょう」

「いやあ。馬車に乗っていた人たちからは、呼び止められたんですけれど。でも、正義の味方というものは、人を助けたら名を名乗らずに去るものじゃないですか。それがかっこいい男ってものでしょう? だから馬車には乗らなかったんです」

 わたしはあきれてしまいました。それで命を落としたら元も子もありません。もしも修道院の前を通りかからなかったら、そのまま血を流しすぎてたおれていたかもしれないのです。

 命をむだにすることは、神さまはもちろん、わたしたちだって許しませんよと強い口調でいうと、青年は素直に「肝に銘じます」とこたえました。

「あなたが助けた馬車はきっと、ここから北にある町か、あるいは村に行くところだったのでしょう。ずいぶんと昔のことですが、そこからひとりの少女が、ここにやってきたことがありました。わたしは行ったことがないので、どんな場所なのかはわかりませんが」

「そうなんですか。じゃあ、行ってみようかな……馬車に乗っていた人、めちゃくちゃきれいな女の人だったしなあ。行けば、また会えるかもしれないし」

 そのことばに、またわたしはあきれてしまいました。きっとその女性を見て、かっこつけようと思ったにちがいありません。

 わたしは、最後に青年の腕に包帯をきつく巻きました。

「はい、治療が終わりましたよ。北へ向かうとしても、今日はもうじき日が暮れます。冬が近づいてくると、この大地は日がしずむのが本当に早いですから。よろしければ、今日はこのまま、ここでお休みになってください。特別に、修道院長さまがお許しくださいました」

「なにからなにまで、ありがとうございます。このご恩はわすれません」

 青年はまっすぐにわたしを見つめて、お礼をいいました。海のように深い、青色の瞳をしていました。

 その色を見て、わたしは母と暮らしていたころに見た海を思い出しました。

 もう、すっかりとおい昔の思い出のような気がしていました。母が亡くなったときの悲しみも、昔ほど感じなくなっておりました。ここにきたばかりのころは、よく母のことを思い出しては礼拝堂でこっそり泣いていたものです。わたしも、歳をとったということでしょうか。

 青年は、さっそく背負っていた槍の手入れをしていました。

「あなたは、どうして武器を持つのですか?」

 わたしは、青年に問いかけました。この青年は、どこからきたのでしょう。武器を持っているということは、どこかの国の兵士だったのでしょうか。

「この槍は、人の憎しみから生まれた魔物をたおすためにあります。わたしはそのために、旅をしています。すこしでも、だれかを助けられるように。すこしでも、人が人を憎まぬ世界になるように、わたしはわたしのできることをやりたい。わたしが持つ力なんて、とてもちいさく弱いものです。それでも、だれかに手をさしのべられるような存在でありたいのです」

 青年の瞳は真剣でした。ふざけているようにも、冗談をいっているようにもきこえませんでした。

「……あなたは、神さまになるおつもりですか?」

 わたしがたずねると、青年は笑って首をふりました。

「まさか。わたしはむしろ、神が我々にあたえる試練を、のりこえられるように力をつけたい。結局、人を助けるのは神ではなく人の力だと、わたしは思いますから……って、ここでいうようなことではなかったですね。申しわけない」

「いいのです。考えは、人それぞれですから……」

 わたしはただそれだけこたえて、医務室をあとにしました。

 青年に「あなたに神さまのご加護があらんことを」といおうとして、結局、いうのをやめました。

 次の日の朝早く、医務室へ向かうと、青年の姿はもうなくなっていました。代わりに、枕元に一枚の金貨が置いてありました。

 その年の冬、修道院長さまが亡くなられました。

 ねむるように、神さまの御許へと旅立ったのです。

 司祭さまをお迎えし、お葬式を行いました。弔いの歌をうたい、別れのことばを告げ、そして修道院長さまの体を、土に埋めました。

 もう、修道院長さまがわたしに手をさしのべてくれることはありません。あたたかい言葉をかけてくれることも、わたしをしかってくれることもありません。

 生きる者が死ぬというのは、そういうことなのです。死ぬというのは、ただ神さまの御許へゆくだけではないのです。残されたわたしたちに、深い悲しみをあたえるのです。

 人が成長するため、神さまは悲しみという試練を我々にあたえます。

 けれど、もしもその試練をのりこえることができなかったら。その者たちのことを、神さまはお救いくださるのでしょうか……。

 次の修道院長は、わたしが継ぐことになりました。わたしは、先代の修道院長さまのようになれるのでしょうか。

 雪が大地に積もってゆくように、不安な気持ちがわたしの心を覆ってゆきました。

 それは、わたしが四十五歳になった年のことでした。

 北の空が赤く染まり、その空を黒い竜が飛来するのが見えました。あまりのおそろしさに、全身の血が凍ってしまうような思いがしました。ほかの修道女たちもおびえたように、空を見つめています。不吉な予感が、わたしたちの頭をよぎりました。

 わたしたちは、ただ神さまに祈りました。祈ることしかできませんでした。

 黒い竜は、たった一夜で姿を消しました。まるで悪い夢だったかのように、赤い空も次の日には元にもどっていました。

 それから何日かして、わたしは森の中で少女がたおれているのを見つけました。

 わたしは、自分の目が信じられませんでした。その少女の手には、いつかの秋の日にけがを治した、あの槍使いの青年と同じ槍がにぎられていたのです。

 少女はぼろぼろで、体中に傷を負っていました。わたしはいそいでその子をだいて、修道院へと連れて帰りました。

 医務室のベッドにねかせて、ようやくちゃんと少女の顔を見つめました。そして、息をのみました。金色の髪も、そのあどけない顔立ちも、かつてここにやってきた少女と瓜二つだったのですから。

 もう、二十五年も前のことです。けれどあのときの少女の顔を、わたしはわすれてはいませんでした。

 そして、目が覚めたその少女の瞳を見て、ますますおどろくばかりでした。少女の瞳は、深い海のような青色をしていました。

 なんという偶然なのでしょう。かつてここをおとずれたふたりの男女と、どちらとも似ている少女が、今わたしの目の前にいるなんて。

 少女の目は覚めましたが、なにがあったのかを知ることはできませんでした。どうして、森の中でたおれていたのかも。

 少女は、口をきくことができなかったのです。かわいそうに、きっとあまりにつらいことが起きて、悲しみにおしつぶされて、声を失ってしまったのでしょう。わたしが声をかけても、抜け殻のように虚空を見つめるばかりでした。

 少女はこのまま、修道院で暮らすことになりました。少女は笑うことも、泣くこともせず、表情を失ったまま、わたしたちと生活をともにしました。

 わたしは、毎日のように少女に声をかけました。ほかの修道女たちがあきらめても、わたしはそれでも、声をかけ続けました。いつか声をとりもどして、返事をしてくれる日がくるまで、声をかけ続けようと思いました。

 そんな、ある夜のことでした。わたしが夜の見回りをしていると、暗い礼拝堂に人の陰がありました。

 あの少女が、ひとり座って泣いていました。

 胸がいたくなりました。ずっとわたしたちに隠れて、ひとりでひっそりと泣いていたのでしょう。

 わたしは少女のとなりにすわって、その子の体をそっとだきました。少女はびくりと体をふるわせましたが、いやがっているようには見えませんでした。

 少女は、じっとうつむいていました。

 その子の姿に、昔の自分の姿が重なりました。たったひとりの家族だった母を失い、家もなくひとりさまよっていたときの自分を。

 わたしはつぶやくように、いいました。少女にいいきかせるというより、自分自身にいいきかせていたのかもしれません。

「……神さまはときに、わたしたちに試練をあたえます。悲しみや、心の痛みと呼ばれるものです。こえることがとても困難な、厳しい試練であることもあります。わたしたちはそれに立ち向かい、生きなければならない。
 でも、試練をこえようとするとき、もしもひとりがつらいのなら……そのときは、だれかにたよってもいいと思うのです。人のとなりに立っているのは、神さまではなく、いつだって人なのですから」

 先代の修道院長さまが、幼かったわたしに手をさしのべてくれたように。あの槍使いの青年が、わたしにそういったように。

 少女はじっと、わたしの話をきいていました。わたしの体に、自分の体をあずけて。

 それから、四年ほどの月日が流れた、ある冬の終わりの日のことでした。

「修道院長さま」

 知らない声が、わたしを呼びました。ふりかえり、わたしはおどろきました。

 ずっと声を失っていた少女が、そこに立っていました。

「修道院長さま」

 もう一度、少女はわたしを呼びました。鈴がなるような、それでいて凛とした、芯のとおった力強い声でした。

「あたしのことを助けてくれて、ありがとうございました。ずっと、お礼をいいたかった。今までいえなくて、本当にごめんなさい」

 まだ、目の前で起きたことが信じられませんでした。お人形のように、ただじっとたたずむだけだったあの少女が、頬を赤くして、その瞳の中にわたしの姿を映しているなんて。

「ああ……いいのです、いいのですよ。あなたの声がもどっただけで、それだけでこんなにもうれしいのですから……」

 わたしはようやく、そうこたえることができました。わたしのことばに、少女はすこし照れたように笑いました。

 はじめて見る、少女の笑顔でした。ようやく、この子は自分をとりもどしたのです。それだけで、わたしは胸がいっぱいになる思いでした。

 少女はこまったように、うつむきがちにいいました。

「あたし、ずっと考えていました……これからどうすればいいのかって。最初は、このままここで、神さまに祈りを捧げる生活を続けようって思っていました。あたしの大切な人たちは死んじゃったけど、みんなは神さまのところへと旅立ったんだって考えたら、すこし前を向けるようになったから。
 もしかしたら、ここにいればずっと幸せに暮らせるのかもしれない。ここはとてもおだやかで、みんなが優しいから。ここにいれば、もうこれ以上、なにも悲しまなくていいかもしれないから。
 でも、あたし、やっぱりそれじゃいやなんです。あたしは、だれかを助けられるようになりたい。試練をあたえられて、悲しみに暮れている人に、手をさしのべられるようになりたい。そういう人のとなりに、立てるようになりたいんです」

 そういった少女の瞳は、かがやきをとりもどしていました。ああ、なんて美しいかがやきなのでしょう。この世に存在するすべてのものと比べたって、この子より美しいものなんて、あるはずがありません。

 わたしとて、この子を失いたくはありません。危険な道など歩ませたくはありません。

 それでも、わたしはこの子に、好きなように生きてほしい。本当の幸せを手に入れてほしい。この子を止めることなど、わたしにはできないのです。

 わたしは、少女の肩を優しくだきました。

「あなたに、神さまのご加護があらんことを。そして、あふれるほどの幸せな出会いがありますように」

 少女も、わたしのことをだきしめてくれました。

 そして、少女は修道院を発ちました。その体にはすこしおおきすぎる、立派な槍をにぎりしめて。

 やがて、少女の背中は見えなくなりました。そして、それきり少女の姿を見かけることはありませんでした。

 それから、長い月日が流れてゆきました。

 ――今日、わたしは六十歳をむかえました。なんということでしょう。いつのまにか、先代の修道院長さまよりも長く生きてしまっているじゃありませんか。

 髪はすっかり白くなり、頬にはしわが刻まれ、腰は曲がり、眼鏡をかけるようになりました。このところ、なんだか寝床から起きる力すらなくなってきたように思います。力仕事も、若い修道女たちに任せきりです。

(わたしもいよいよ、神さまの御許へと旅立つ頃合いなのかしら)

 この世をはなれることに、こわさはありませんでした。そのかわりに、ひとつ心残りがありました。

 あの少女が、今幸せに生きているかどうか。ただそれだけが、気がかりでした。

 結局、あのとき少女を見送ったわたしの行いは、正しいものだったのでしょうか。何度考えても、わかりませんでした。

 わたしは、神さまに仕える者としては真っ当に生きたつもりです。規律を守り、なまけることなく働き、生涯のほとんどをこの修道院で祈りを捧げて暮らしました。

 しかし果たしてわたしは、ひとりの人間の女性として、すこしでも意味のある人生を送れたのでしょうか。先代の修道院長さまのように、だれかに手をさしのべることができたのでしょうか。だれかを、救うことができたのでしょうか。

 わたしが、この世に生を受けたことに意味はあったのでしょうか……。

(所詮、わたしのような人間がだれかを救うだなんて、おこがましい考えだったのでしょうね……)

「失礼いたします。お客さまがいらっしゃいましたよ」

 とつぜん、修道女が部屋にやってきて、わたしにそう声をかけました。お客さまですって? こんな辺境の地に、いったいどなただというのでしょう。

 重い腰をあげ、わたしは玄関へと向かいました。

 玄関に立っていたその姿を見て、わたしは目を疑いました。幻なんじゃないかと、思わず眼鏡を拭いてしまったほどです。

「おひさしぶりです、修道院長さま」

 鈴が鳴るような、それでいて凛とした力強い声。わすれるはずがありません。

 あのとき見送った少女が、わたしの目の前に立っていました。

 あのときと同じ、金色の髪と、海のような深い青色の瞳。

 唯一ちがっているのは、もう少女ではないということでした。凛々しく、美しく成長されたお姿で……それはもう、あまりの美しさに、女神さまが現れたのかと思ったほどです。

「あ、ああ……」

 あまりにおどろいて、なにもことばをかえせなかったわたしの手を、その女性は優しくにぎりました。

「修道院長さま。長いこと会いにこられなくてごめんなさい。でも、ずっと伝えたいと思っていたの。
 あのとき、まだ八つだったわたしを、あなたが助けてくださらなかったら。わたしは今ごろ、命を失っていたでしょう。
 それから四年ものあいだ、声を失ったわたしに、何度も声をかけてくださった。だからわたしは、それにこたえたいと思えるようになった。礼拝堂で泣いていたわたしの肩を、優しくだいてくださった。あのときのことばがあったから、わたしは生きようと思えた。あなたはわたしにとって、大切な大切な恩人です。ありがとう……あなたのおかげで、わたしは今幸せです」

 そして彼女は、わたしの体をだきよせたのです。

 わたしはただただ、彼女の腕の中で泣きました。彼女にだきしめられながら、いくつもの涙の粒が頬を流れてゆきました。

 彼女はわたしに、この世に生まれた意味があったことを教えてくれました。神さまですら、教えてくれなかったことを……。

 それからすこしばかり話をして、帰り際にその女性は「お土産に」と、甘いお菓子と紅茶を置いていってくれました。

「そのお菓子は、わたしの故郷に伝わるものです。紅茶は、わたしの夫の故郷のもの。いっしょに召し上がるととてもおいしいので、ぜひためしてみてくださいね。
 あ、そうそう。夫の故郷では、紅茶にはジャムをいれて飲むのが主流なんですよ。もっとも、あの人は甘いものが苦手なのですけれど! まったく、甘いものが苦手だなんて、人生を損していると思いませんか?」

 かわいらしく笑って、その女神さまのような女性は帰ってゆきました。愛する人のところに。自分で手に入れた、本当の幸せのところに。

 わたしは、心も体もぽかぽかとあたたまるのを感じました。なんだか急に、体の底から力が湧きはじめました。今日のお祈りの時間はお休みにして、さっそくみんなでお茶を飲むことにしましょう。もちろん、甘い甘いジャムも用意して。

 神さま、ごめんなさい。わたしはまだ、あなたさまの御許へゆくことはできません。わたしには、わたしにしかできないことがまだきっとあるはずですから。

 ――それからのちに、世界中の教会で、貧しい人たちのけがの治療や病気の治療を行う、歳をとった修道女の姿を見かけるようになりました。

 彼女の手際のよい治療のおかげで、たくさんの人々の命が救われたといわれています。